ハイデガーの「ニーチェ」を読む。ハイデガーは最終的にニーチェを最後の形而上学者であり、存在忘却者だというのだが、テキスト「力への意志」を読む際には出来る限りニーチェに寄り添って、ニーチェを代弁する形で、ニーチェの言葉を自分の用語に置き換えて、かなり同情的に理解に達しようとする。力への意志というが、力は意志であり、意志は力である。力への意志は自分自身を越え出て行く衝動であり、それ自体愉快なものである。存在者の根本を意志と見るのはハイデガーによれば、ドイツ哲学のよき伝統であり、ショーペンハウアーだけでなく、ヘーゲルは知ることを意志的なものと見ていたし、シェリングも悟性を意志的なものと見ていた。ニーチェの力への意志はハイデガーの言葉に置き換えると覚悟であり、自己開示へと向かう者であるという。ここでハイデガーは自著の「存在と時間」を念頭に置いていたのだろう。現存在としての人間は、一般的なひととしての退廃状態に埋没しているのだが、死への覚悟を契機として、覚醒し自ら決意して生きる方向性を選び取る本来的状態に立ち返るのである。ハイデガーが力への意志を覚悟であると言い換えているのはひょっとすると、無思慮な退廃状態から覚醒した本来の状態へと転回するキータームとして覚悟を捉えていたのではないかと思われる。けれども、力への意志は存在者の真義ではあっても、存在そのものの意味とは見做されない。上巻の冒頭の議論では、力への意志は人間的な情動である。このままでは、力への意志を万物に適応しようとするニーチェの考えに移行するには大きな障壁がある。むしろ存在がこの世に立ち現われる潜勢力としてニーチェの力への意志を読み解くならば、ニーチェの力への意志とハイデガーの存在は橋渡しされるように思われる。ハイデガーが自らの存在についての議論に、ニーチェをどこまで同情を持って引き入れることができるのか。力への意志=存在の潜勢力という議論に至れば、ハイデガーが最終的にニーチェを拒む理由はないだろう。ハイデガーの頭の中で膨大な見取り図を描きつつ展開している議論は、最大限ニーチェに寄り添うそぶりをしながら、最終的には対決の構図へと向かっているはずだ。だが救いはまだある。ハイデガーは「ニーチェの思索が形而上学のなかへ躍入せざるをえなかったのは、存在がその固有の本質を力への意志として映発させていたからだ(下巻p.513)」と明言している。両者を繋ぐ糸は必ずある。ハイデガーによれば、力への意志では存在性が主体性に転化しているのである。意志は自力で存在は他力だが、意志は存在の発露なのである。
力への意志は機を待つ存在でやがてこの世に立ち現われる