超人日記・俳句

俳句を中心に、短歌や随筆も登場します。

#俳句・川柳ブログ 

<span itemprop="headline">シシカバブ、あまちゃんの余談、よもやま話</span>

2014-01-06 23:07:42 | 無題

8時に豪徳寺で友人と待ち合わせて、豪徳寺パティヤラパレスで談笑した。
ダル・マサラ、チキンコルマ、シシカバブを食べて近況を話す。
友人が話した話は以下の通りである。
紅白は能年玲奈と綾瀬はるかの天然ぶりがよかった、
地元に帰ろうで終わったのは自分としては正解だった、
あまちゃん総集編は肝心なところを飛ばす、
夏が夫を探すところで潮騒のメモリーが掛かるのがよかったのに
そこを飛ばされるのは解せない、
種市高校が種市先輩の由来とは知らなかった
あまちゃんの最後は勉さんの扱いがひどい、
悪霊島の話を本で読んでネットで映画を見た、
鵺の啼く夜は恐ろしいだ、
余りにどぎつい話で辟易した、見なきゃよかったぐらいだ、
転校生の頃の小林聡美はかわいらしかったのか、
ブログで解かり澄ましたようなことを書いて、
けなしてやろうと思ったが、最後は自分は妄執のかたまりだという
落ちがあって安心したよ、
一体どこに話を落とすのかと思ったら、
自分は当分救われないと書いてあって微笑ましい、
それにしてもあの人を喰ったような短歌はなんだ、
人の知らないような下世話な話を何であれこれ知ってるんだ、と喋っていた。
二人で10%引きで4千45円。
私は思い出し笑いをしながら帰って、
降りる駅を間違えた。
久しぶりにダル・マサラを食べて談笑した。土産に山口県のういろうを貰う。

お互いの笑える所を笑い合い年を迎えてういろうを貰う



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<span itemprop="headline">仏伝読み比べ、煩悩十万億</span>

2014-01-06 17:46:23 | 無題

仏陀が何を言いたいのか知りたくて、仏伝を見比べた。
増谷文雄さんの「この人を見よ」という釈尊伝では
仏陀の真意は書けないと言っている。
書けないでは話にならない。
菅沼晃さんの「釈迦のことば」をめくってみた。
原始仏典の仏陀の発言が前半引用されている。
仏陀の真意は何か。
「釈迦のことば」の後半、仏伝が記される。
そこで仏陀の真意が紹介されている。
まず縁起である。原因があって結果がある。
無明(蒙昧・迷い)によって苦が生ずる。
老病死などの苦の原因は無明である。
無明を脱することで苦が滅する。

さらに渡辺照宏さんの「新釈尊伝」で仏陀の真意を読む。
無明がなくなれば、生まれてくることもなく、
老病死もなく、苦もない。
無明を滅ぼし、苦の根にある渇望を滅ぼし、
相応しく身を持して暮らすことが仏陀の真意であるという。

菅沼晃さんの「仏陀 33の物語」ではこうある。
苦は老死によって生じ、老死の生は無明(根本煩悩)によって生じる。
現実の苦悩が老死によって生ずるとすれば、
苦悩がなくなるためには老死がなくなり、
ないし、その根源である無明すなわち根本煩悩が滅しなくてばならない。

仏陀は長い間家屋を作る者、すなわち
個体を突き動かし苦しみを与えているものとは何かを求めてきたが、
今、その正体が妄執、執着であることが分かった。
妄執を失くせば、もはや家屋の作り手(我執)は再び家屋(生の苦悩)を作ることがない。
心はとらわれなく、からりとした状態になった、とある。

鈴木大拙はその要点を、
「汝、屋舎の主(生の苦悩の本体)よ、
今こそ汝の正体(無明、我執、妄執、執着)を認めた。
これからは、またと屋舎(迷いの生)を作るなよ。
汝の梁は折れた、棟木は崩れた。
有為転変の相を離れて、貪愛の心はうちひじかれた。」と訳したという。
そこまで読んできたが、私はCD欲、読書欲など妄執で一杯である。
当分救われそうもない。
妄執で楽しく遊び呆けても辿りつけるか無垢なところへ



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<span itemprop="headline">遠大なブルックナーの轟音数種、エラノス読書</span>

2014-01-05 12:17:56 | 無題

チェリビダッケのブルックナー9番を聞き、遠大な世界へ引き込まれる。
マイルスのジャスト・スクィーズ・ミーという10枚組廉価盤を聞き、マイルスに触れる。
廉価盤アルバムは他にコルトレーンのブルー・トレイン10枚組、モンクの10枚組をメンブランで持っている。
それから、チェット・ベイカーのマイ・ファニー・ヴァレンタイン10枚組、ジミー・スミスのエイト・アルバム、リー・モーガンのエイト・アルバムも持っている。
私のコレクションはクラシックが中心なので、その他は余り拘らずに廉価盤で聞いている。
今日はブルーノ・ワルターの旧ベートーヴェン交響曲全集を聞いた後、ジャスト・スクィーズ・ミーを聞いている。こういうのを古いカフェで聞くと最高なのだが。
最近チェリビダッケのブルックナーをよく聞く。
でも一番好きなのはギュンター・ヴァントのブルックナーである。構成・造形が厳正でドイツ的である。
オイゲン・ヨッフムのブルックナーもよく聞く。
余り聞いていないのは、スクロヴァチェフスキ。好きなのだが手が伸びない。
ロジェストヴェンスキーのブルックナーも咆哮でむせび泣く好録音。
インバルのブルックナーは初稿に拘り過ぎて旋律が台無しになっている(特に4番)。
マンデアルの七色の音色と言われるブルックナーもよく聞いた。
リッカルド・シャイーのブルックナーは録音の懐が深い。
シャイーはその頃オーソドックスなテンポだったが、ベト全、ブラ全で快速演奏に切り替えた。
手離せないのが、フォルクマール・アンドレーエの世界初ブルックナー全集である。
アイヒホルンの貴重なブルックナー選集も時折出して聞く。
9番が補筆完成版なのが見逃せない。久しぶりにスクロヴァチェフスキ出して聞く。
最近、古い宗教書に惹かれる。
キリストは自己の元型的イメージだという。日本人の場合、仏陀や達磨かもしれない。
「悟りは自己への開かれ」と聞いて鈴木大拙は「ユングはよく分かっとる」と言ったらしい。
東西を越えて古い宗教書に惹かれる。音盤、宗教書、音盤である。

遠大なブルックナーの轟音に打ちのめされて空を見つめる



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<span itemprop="headline">年末のCD探究、新年の一コマ、泣ける演奏</span>

2014-01-01 22:55:08 | 無題

年末のセール前に中古CD店に出掛けてゆき、廃盤進行中のEМIのチェリビダッケのブルックナー選集を買う。これが目的だったのだ。だが、帰り際にふと見たコーナーにドヴォルザーク・コレクション室内楽編が売っているではないか。
これは以前熱心に捜し歩いた探究盤だった。室内楽編も買って帰る。
帰ってEМIのチェリビダッケのブルックナー選集を聞いた。
孤高のブルックナー演奏が聞ける。
ある友人がこの選集のいい所は泣ける所だと言っていたが、わかる気がする。
超スローテンポでブルックナーを延々と朗々と演奏し、この独自の間で泣いてくださいと言わんばかりである。
芸術家肌の自由度の高いブルックナー演奏である。
曲のテンポで言えば比較的速いドイツグラモフォンのストゥッツガルト放送響の選集のほうが、造形的に締まりがある。
EМI盤のブルックナー選集は超スローテンポで自分に入り込んじゃっている演奏なのだが、これが泣ける。泣けると言えば確かに泣けるのである。
年末にブルックナー四番、五番、七番、八番と聞き込んだ。
アダージョではここで泣いてくれと言わんばかりの歌いっぷりである。
カラヤンとの闘いに敗れ、スター指揮者の道を絶たれ、カラヤンにできないことしかしないを信条としたチェリビダッケである。
大平原で暴れているような、広大な空間にエネルギーを目一杯放出しているような自由度の高いブルックナー演奏である。
チェリビダッケはブルックナー演奏の新境地を開いた。
ドヴォルザーク・コレクションは協奏曲・管弦楽編を持っていてこれが絶妙なので室内楽編も素晴らしいと思う。何しろスプラフォンの精鋭を集めた名演奏の選りすぐりである。
年末年始はいったん放置していたジョセフ・キャンベルの神話の力を読んでいる。一般人が理解できる範囲で神話の意味を分かり易く説明するのが上手い。ちょっと胡散臭いが読み易くて見晴らしのいい本だ。
だが私としてはレヴィ=ストロースの「神話と意味」に一票を投じたい。
ニューイヤーコンサートでバレンボイムのドナウやラデツキーを聞いて東京ラスクを食べている。
紅白のあまちゃん特集はよかった。
放たれた芸術肌の演奏で今年の視座が開かれてゆく



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