「藤堂高虎公」
藤堂高虎は関ケ原の戦いの功によって徳川家康から伊予20万3千石を賜りました。
この像は今治城造りの指揮を取っている姿だそうです。
彼が「今張る」と名付けたのでしょうか?
彼は約6年の歳月を費やして今治城を造りました。
ところが完成直後、伊勢・伊賀へ移封になりました。
彼の後任は、当時6千石の久松家です。
「6千石に天守閣は要らない」と、彼は今治城の天守閣を解体して、新任地へ持って行きます。
以後今治城には天守閣がありません。
今治藩久松家は徳川一門であり伊予松山藩久松家の分家です。
ここ今治に4万石(後3万5千石)を賜り、明治までの間15代が今治を治めました。
従って藤堂高虎は主たる今治藩主とは言えませんが、築城主として、また戦国時代の有名人として、観光戦略も考慮して(?)ここに像を造ったのしょう。
藤堂高虎は城造りの名手とうたわれ、この今治城が後の名古屋城や駿府城のモデルになったと言われています。
現在の天守閣は1980年に再建され、藤堂高虎像は2004年に建立されています。
天守閣へ向かう門には門松が飾られています。
もうすぐ新年を迎えるふるさとです。
次回に続きます。
藤堂高虎は関ケ原の戦いの功によって徳川家康から伊予20万3千石を賜りました。
この像は今治城造りの指揮を取っている姿だそうです。
彼が「今張る」と名付けたのでしょうか?
彼は約6年の歳月を費やして今治城を造りました。
ところが完成直後、伊勢・伊賀へ移封になりました。
彼の後任は、当時6千石の久松家です。
「6千石に天守閣は要らない」と、彼は今治城の天守閣を解体して、新任地へ持って行きます。
以後今治城には天守閣がありません。
今治藩久松家は徳川一門であり伊予松山藩久松家の分家です。
ここ今治に4万石(後3万5千石)を賜り、明治までの間15代が今治を治めました。
従って藤堂高虎は主たる今治藩主とは言えませんが、築城主として、また戦国時代の有名人として、観光戦略も考慮して(?)ここに像を造ったのしょう。
藤堂高虎は城造りの名手とうたわれ、この今治城が後の名古屋城や駿府城のモデルになったと言われています。
現在の天守閣は1980年に再建され、藤堂高虎像は2004年に建立されています。
天守閣へ向かう門には門松が飾られています。
もうすぐ新年を迎えるふるさとです。
次回に続きます。