荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

西ヶ原みんなの公園

2024年12月30日 | 散文

何度かトイレを使っただけで、中まで入った事はありません。今日の目的地です。坂の上に老人ホームが在ったりして、広大な公園は有事の際の避難場所でもあります。

これは、幾つか有る災害時対応施設の一部です。「防災パーゴラ」です。災害時に、屋根にテントを張ります。「パーゴラ」との名称を初めて知りました。そして、このような施設とアイデアを初めて知りました。

「まちのうつりかわり」の説明です。ここにも下瀬氏が開発した火薬の説明が有りました。日露戦争に使われて、世界の注目を集めた、との記載も有ります(司馬遼太郎氏は小説を書くに当たって念入りに調査した、と聞いています。「坂の上の雲」でもその行動に裏付けられた描写になっています)。

また、海軍火薬製造所が移転した後、昭和19年に東京外語大学が一橋から移転して来て、平成12年に府中市に移転した旨も記載されています。更に、東京外語大学の府中市移転に際して、キャンパス跡地を「防災公園」とした旨も記載されています。

ちょっと変わったベンチです。これは時々各所の公園で見ます。

名残りの紅葉です。真ん中は、今は枯れていますが、谷川です。上の公園と繋がっています。

広大な公園です。ここと上と、全てが東京外語大学の敷地だったのでしょうか?

周辺は、私がよく行く下町です。

もう商店街の名残りしかありません。

角を曲がると、これが商店街のメイン通りの端っこです。ソメイヨシノ発祥の地の「染井商店街」に続きます。

「西ヶ原銀座商栄会」です。

その角っこに、「西谷戸新道」の表示があります。

栄えた商店街を彷彿とさせます。昭和は遠くなりにけり、です。

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下瀬坂の由来は「下瀬火薬」

2024年12月30日 | 散文

別用があって通り掛かりました。坂の下り口に説明板が有ります。何度も通った路です。いつもは下り坂に向かう勢いで素通りしていました。

読みます。「下瀬坂 この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。」

この説明が、長年何かのきっかけの度に思い出していた記憶にジャストミートしました。ちょうど今、NHKで「坂の上の雲」が再放送されています。小説を読んだのは30歳代の初めでした。色々なシーンが記憶に残っていますが、「下瀬火薬」も印象深く残っています。

「バルチック艦隊との戦いで使用された日本海軍の砲弾は、諸外国のそれのように、鋼板を貫通して内部で爆発させるのではなく、甲板で破裂して高温の炎を発し、一面を焼き払って兵を焼死させ、戦闘能力を奪うことを目的としていました。その敏感さたるや、海面に当たっても爆発して高熱を発する」と記憶しています。凄いな、と思いました。酷いな、とも思いました。財力に乏しい開花期の日本が発明した弾薬です。 ここが、その火薬を発明した場所だったのです。記憶が現地と繋がりました。

引き返して周辺を探索します。今日の目的にも叶うと思いました。広場が在ります。初めて踏み入れます。敷地が土じゃない公園です!

「西ヶ原みんなの公園」です。

ここに、「東京外語大学西ヶ原キャンパ跡地」の石碑が有ります。つまり、この界隈が「海軍下瀬火薬製造所」の在った場所です。

向かいには、「武蔵野学院」が在ります。下瀬火薬製造所が在った場所は、その道路のこちら側だと思います。

坂に向かいます。この辺りも製造所の敷地だったのではないでしょうか?

現在は「飛鳥晴山苑」という老人ホームです。

隣は「高齢者あんしんセンター」です。「下瀬の小径」との表示が有ります。後で知ったのですが、この先にエレベーターがあって、下の公園(西ヶ原みんなの公園)と繋がっています。構造的に、下が公園の中心地です。

高齢者あんしんセンターの前を坂に向かいます。

下瀬坂を、スピードに乗って下りました。

坂の下は広い公園です。

広大な「西ヶ原みんなの公園」です。時々、トイレを使います。

この話、続きます。

コメント (2)
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