荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

江東馬頭観世音へ行く。

2022年12月28日 | 散文

少し前の新聞記事です。サザエさんが英会話のテキストに夢中になって、馬にぶつかる漫画です。1946年5月の掲載です。戦争が終わってまだ1年経っていません。進駐軍がやって来て英会話がブームになって、戦争の影響で自動車や燃料が不足して、馬が輸送を担っていた頃です。

 

よく読むと、真中のやや左に「南砂1丁目に馬頭観世音が立っている」との記事が有ります。

 

探してやって来ました南砂1丁目の「江東馬頭観世音」です。

 

隣にビルが建っています。

 

「東京トラック同盟協同組合」です。なるほど、荷馬車からトラックに変わった運送業者の組合ビルです。

 

「交通安全守護」の石碑が立っています。

 

裏側です。交通安全は運送業者の願いです。

 

運送業者が並んでいます。

 

入って行きます。

 

ここです。石柱を見ると、馬だけでなく輓牛も祀っています。戦争で死んだ牛馬に対する慰労と感謝と後悔と無念と鎮魂と供養と、安全祈願の場です。

 

馬頭観世音です。

 

石碑前にお供えが有りました。

 

馬の蹄鉄です。

 

馬の埴輪です。

 

「江東馬頭観世音由来之碑」です。読みにくいので転記します。 「昭和20年3月9日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈した。また戦局が激しさを加えるに伴い石油が欠乏し、国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された。江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの輓馬業者が集中し牛馬の頭数三千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死し更に戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用され大陸や南方において数多くの馬が戦死を遂げたのである。

  昭和28年9月輓馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである。  大空襲後三十三回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記しここに碑を建立して永く世にこれを傳えることになった。  昭和52年3月10日   江東馬頭観世音講」

建立の3月10日は東京大空襲の翌日です。夜が明けると、人だけでなく、牛馬も沢山死んでいたのでしょうね。こんな悲しい日を、建立の日としています。

 

他に関連情報はないだろうか?と考えました。そうだ、この時代のこの界隈の出来事を撮って詠んだ人が居ました!この人です。愛媛松山出身で砂町に住み、新聞にコラムを連載して下町を語り、俳句を詠んだ、石田波郷です。

 

砂町文化センターに、彼の業績を伝えるコーナーが有ります。ここには彼が撮った下町の写真と、下町を詠んだ俳句が遺されています。

 

有りました!写真と俳句が有りました。奇跡の出逢いです。    (南砂町1丁目で)「秋雨や減りに減りたる荷馬車馬」

こんな散策というか、探索になりました。嬉しい出逢いでした。


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