駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

年を取ると言うこと

2014年03月02日 | 診療

                                       

 あと二年数ヶ月で古希になる。二十歳の頃には七十歳などというのは随分爺さんに見えた。勿論、矍鑠とした爺さんも居て、そうした方には年の功と深い智慧を感じた。自分がそうした年に近づいたとは、とても思えない。大した智慧も貫禄も付いていない。しかし、残念ながら衰えは自覚する。

 開業医というのは年を重ねても課長、部長、重役、社長と役職が上がって行くわけではなく、いつまで経っても平と同じ仕事内容で仕事量は多少ではあるが増えてくる。とにかく部下が居ないので、あとは宜しくとは行かない。患者さんを一人一人診察して、毎日何人かは往診をしなくてはならない。政治家や社長には前期高齢者でも元気に活躍している人が多いけれども、それは元々精力的な人が多い上に仕事が総論的で部下が居るから可能なのだろうと思う。

 患者さんを診察するのはいつまで経っても難しく神経を使う。正直、日に六十人も七十人も診るのが大変になってきた。冬は多い日には百人近くの患者さんが来る。そうするとどうなるかというと、仕事を終わったあとは何時間もぼーっとしていないと頭が元に戻らない。昔はといっても五六年前までは、仕事が終わってから好きなことをする元気があった。今はテレビや本を見るでもなく読むでもなくぼーっとしている。そうすると翌日又何とか働くことが出来る。

 ブログを書き始めた頃はもう少しまとまったものを書きたいと思ったものだが、今では短くてちょうどいいやとなってきた。これが面倒になると冥土もさほど遠くないのかもしれない。冥土というのはひょっとして生きるのが面倒から来ているのかもしれない。

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