時々今日は本屋に寄るのはよそうと思うことがある。というのは寄れば必ず何冊かの本を買ってしまうからだ。多分、本くらい買っても良いではないかと思われる方の部屋には本は溢れていないだろう。私の書斎には本が溢れている。
最近は買った本の四分の一も読んでいないような気がする。勿論、二三ページは読むのだが、大抵挫折して放り投げてしまう。書架が一杯なのでつい積み上げることになり、まるで筍のようにあちこちに生えている。年に数回、発作的に伸びた筍狩りをする羽目になる。
いつの間に気が付いたのか、行きつけの本屋が波とか青春の読書とか本の窓とか・・出版社の小冊子を送ってくれる。こうした小冊子は読みやすくしかも面白い。つい患者の来ない五、六分の間に目を通してしまう。批評家は当然だが小説家も本を読むのが好きらしく他人の著書の感想文を載せている。これがまた、面白そうに書いてあるのだ。つい読みたくなる本が何冊も出てくる。
物忘れが酷くなったのだが、こうしてことは以外に覚えていて、町に出たついでに本屋を覗きたくなる。早く行きすぎてまだ出回っていないこともある。ああこれかと手にとっても実際には買わないことが多い。書評ほどではなさそうなこともあるが、要するに小金持ちなのにケチだからだ。文庫本になったら買おう。文庫本になるということは一定の評価があったということだしという理屈も付ける。子供の頃、野原に遊びに出ると、畔の灌木の枝に干涸らびた蛙やトカゲが刺さっていた。モズの生け贄という奴で、あとで食べようと取って置いたのが忘れ去られているのだ。それに似て、私の文庫本化待ちにも同様の運命が待ち構えている。
どうして世にこんなに本が溢れているのだろうか。毎日何十冊否百冊以上の本が出版されているような気がする。多くの人に読んで貰いたい、記憶に残る形として残したい、編集者に勧められた、収入源である・・・・色々な理由があるだろう。私は本には脳外脳として機能があり、そして多くの物事は一言では言えず本にしなければ表現できない伝えられないからだと思う。あまり本を読まれない方には、僭越ではあるが一言では表せないことが世の中にはたくさんあること知って戴きたいと思う。