明治と昭和に挟まれた大正、それは母の生れ育った時代。子供の頃には遙か遠い昔の様な気がしていた。しかし還暦を過ぎて六十年の時を測る物差しを手にした今、百年の昔もさほど遠い昔とは感じなくなった。
記憶は本箱の本のようなもので、昔のことだから奥に入って中々取りだせないというわけではなく、45年前に買った本も昨日買った本も同じようにすぐ手に取ることができる。むしろ二十歳の春の方が還暦の春よりも鮮やかに思い出される。
生まれる前の大正の記憶があるわけでないが、なんとなく思い出すことができる。父母の言葉、写真、文学、歌俳句など限りない手掛かりがあり、手触りがある。
残念ながら誠に文化歴史に不案内で、片片の知識しか持ち合わせないが、どういうものか此の頃寒い夜に、やがて百年の昔になる大正時代を思い描くことしきりである。ちょうど草田男が明治を詠んだように、私どもには遠くなった大正が懐かしいのかもしれない。
山国の虚空日わたる冬至かな 蛇笏
万古不易と懐かしく思い遺ることはできるのだが、日わたる下界の風物心情は、九十余年の時を隔てて、いささか変わった気配がある。
草田男は『降る雪や 明治・・・・』の句を昭和六年に作句しています。
ですからこういう引用は少し筋違いかもしれません。でもまあ気持ちとしては理解できると思います。