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●「エッセー・随筆教室」年間賞の作品発表(前編)【中之島】

2019年02月01日 17時00分45秒 | 中之島教室
こんにちは。中之島教室Mです。

第1・3火曜の10:30~開催している「エッセー・随筆教室講座
(元朝日新聞記者・宇澤俊記講師指導)で年間賞を獲得した作品をご紹介します。

年間賞受賞者は、小嶋裕さん。教室に通って約25年になります。
大作のため、前編・後編と2回にわたってご紹介します。
本日は前編です。


映画 ああ栄冠は君に輝く
小嶋 裕

 加賀大介作詞、古関裕而作曲の全国高等学校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」は、
甲子園を目指す高校球児を励ます応援歌として、今も歌い続けられている。ところが、この歌が応募により、作られた昭和23年当時、作詞者は加賀道子(当時大介の婚約者)となっていたのである。この映画は、そのいきさつをはじめ、作詞者加賀大介の、野球選手としての夢を閉ざされ、そして目指した小説家にもなれなかったが、栄冠に輝く夢を抱き続けて生き、それを支えた家族の物語である。

 私は8月25日(土)、大阪中之島フェスティバルタワー・ウエスト4階の中之島会館で開かれたこの映画の無料上映会に、ネットで応募して参加した。この日はこの映画の稲塚秀孝監督の話もあった。監督の話によると、記録映画を撮り始めた平成18年に石川県能美市に加賀道子さんを訪ね、改めて最初にこの歌の作詞者を道子さんとされたいきさつを聞いて、「いつか大介さんと道子さんの物語を映画にしましょう」とその時約束したという。
2年後、高校野球第90回大会では、ドキュメンタリー番組で道子さんと娘の淑恵さんが甲子園球場を訪れる様子を放送した。その後
第100回大会が行われるこの夏に映画を完成・上映しようと動き出し、仲代達矢さん始め無名塾(仲代の主宰するエリート俳優養成塾)の俳優さん達の出演も決まり、加藤登紀子さんのこの歌の歌唱も映画に取り込むことが決まった。撮影は今年2月から始め、ドラマ部分の撮影は5月に道子さんの地元で行い、多くの地元スタッフの協力を得て完成することが出来た、と語った。監督の編集されたこの映画のガイドブックも作られ、私はそのガイドブックを購入し、最初のページに監督の署名をもらった。このブックから仲代達矢の語りの文句やナレターの言葉を文字で知ることが出来て、良かったと思っている。

 映画は、今年の6月21日に石川県能美市の根上野球場で、加賀大介の記念品などを収めたタイムカプセルの掘り起こし式の様子の画面から始まる。カプセルは大介の没後20年の平成5年に埋められ、第100回大会のある今年、掘り起こすことになっていた。四半世紀の時を経て出てきた大介ゆかりの品々をまぢかに見た妻の道子(93歳)は会場で挨拶し、その後「栄冠は君に輝く」のコーラスが唄われた。
 そして画面は昭和39年秋へと移る。47歳の加賀大介が文机に向かって、原稿用紙にペンを走らせている。当時9歳だった娘の淑恵のナレーションが流れる。
「足が不自由だった父は毎日書斎にこもって、
職業的な作家であったわけではありませんが、
ものを書くことが、自分の人生を支えているように見えました」

 昭和47年。小松高校3年の淑恵18歳、思い詰めた様子で大介と話をする。進学を早稲田か、日芸の演劇科を受けようかと思っている、という娘に大介は、私立はダメだ、うちには私立に行かせる余裕はない、どうしてもというなら国公立にせえ、という。さらにちゃんと安定した仕事に就かんとだめや、将来は教師を目指したらどうなんや、と付け加える。ここで仲代の語りが入る。
「当時、加賀家は金沢の貯金局に勤める妻、道子さんの収入で生計を立てていました。後日そのことを知った娘 淑恵さんは演劇の道に進むのを諦めました。大介もまた、少年の頃の夢を諦めた人でした」
 そして、画面は昭和6年の根上町、浜小学校のグランドにさかのぼる。16歳の加賀大介(当時は元の名前、中村義雄)が仲間を集めて野球をしている。語りが入る。
「中村義雄は、野球が大好きでした。地元の工場に勤め、休みの日には友達を集めて野球をするのを楽しみにしていました。義雄はいつも裸足だったのです」

 バッターの義雄の打球は、三遊間を抜ける、一気に3塁めがけてスライディングする、が、右足の親指を怪我して血が噴き出した。
語り「その時、義雄は十分な治療をせず野球を続けました。そのことで取り返しのつかないことになってしまったのです」
 傷が化膿して、骨髄炎となり右膝から下を外科医院で切断することになった。早慶戦のラジオ実況放送を聞きながら手術を受けた。
語り「こうして、野球にかけようとした少年の夢は消えたのです。やがて少年は新たに情熱を傾けるものを見つけました。それは〝文芸の道〟だったのです」

(後編は2/2にアップします)
コメント
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