師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

つながりとは、目に見えるものなのか。

2009年07月18日 | 天意の実践

政界再編がテーマのニュース解説の番組で、ゲストの議員さんが、

「誰がトップになり、誰が支えるのかとなった時、

誰がトップになっても支える人がいないのです。」

と話していた。

「どうして、このような、ひととのつながりの薄い自民党になったの

でしょう。」

と、司会者。

そういえば、昨日も別な番組で、こんな話をしていた。

今の大学生は、ひとりで昼食が食べられない。

どうしてもひとりで食べなければならない時、トイレで食べている。

きっかけは、大学のトイレに注意を喚起する張り紙があったことから、

わかったことなのだが、周囲の目を気にしすぎて、ひとりで昼食を

食べていると、「あいつ、友達がいないと思われるのがいや。」

なのだそうだ。

何かが違わないか?

いっしょにいるから、友達なのだろうか?

これは、カウンセリングでも出て来る話なのだが、

そもそも、友達とはなんなのか。

今の総理の盟友と言われたひとは、お酒で失態を見せて、

マスコミの格好のネタとなった。

孤独がいやだから、誰でもいい、結婚したかった。

と、結婚した友人もみてきた師匠。

師匠「私はもともと、障害から、自分はひととは違うのだ、と感じて

   いたから、ひとりでもひとりでなくても、あまり意識しなかったな。

   必要なとき、必要な人たちがいれば、それでよかったよ。

   (芝居をするメンバー。合唱するメンバー。バンドメンバー。)

   あまり、関わらなかったから、逆に寮生活の時は、2人部屋

   なのに足の踏み場がないくらい、ひとが集まっていた。(笑)

   まるで、君のアパート生活の時みたいにね。」

そうだ。私も20代のアパート暮らしのとき、部屋に入りきれなくて、

ベランダにまで(!)ひとがいたりしていた。

みんな、誰かの友達つながりで、知り合い、今でも、時々会う人

たちいるが、それが友達かというと、そこは違う。

だが、何かあると、誰かが音頭をとって、連絡を取り合うのだ。

師匠が言うように、必要なとき、つながりあう。

これは、目に見えて会う頻度が多い、とかではない。

何かの時、助け合うつながりといったところだ。

白洲次郎氏の話ではないが、カントリージェントルマンの

思考にも通じるものがあるように思える。

テレビに出ていた大学生や、この大学生の親世代よりも

少し上の年代の政治家たち。

つながりとは、目に見えているものなのか、それとも、

目に見えないものなのか。

そして、それ以上に、ひととのつながりについて、一考してみるのも

いいかもしれない。        

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