この世界も生き物だから、常に動いている
変転するその流れにより、流れの中で、
すべてが生きている
地球が生きていることを認識していることで、
流れを理解してれば、流れに逆らって泳がない限りは
困難はおこらない
困難を予見し、困難をも、避けることができる
完璧な流れであると理解し、体感すると
決めれば、
そのように流れていくことも、できる
この国に住まう神々は、語り続ける。
ただ、八幡神は、国難においてのみ、それは、天皇家のみに
語りかけられる御方と、神道では位置づけられていた。
大神杜女の昔より、国難に向かう時、語りかけられてきたのだ
と、言う。
今の時代、この声に耳を傾けられるのは、今を生きる
わたしたちなのかもしれない。
自然の中に共に住まう、すべての神々の声が伝えられている。
よく生きると決めれば、たやすく、それは届けられる。
ただ、
八つの世界を統べる神、八幡大神はまだ、沈黙している。
聞く耳もつ者にのみ語られるは、人だけではない。
神もまた、同じなのだ。
日々の中で、あなたは思う。
「もっと、このひとが、こうであったら。」
「どうして、このひとは私が言っていることをわかってくれないの。」
「やだ、なに言ってんの、このひと。
私の言っていること、ぜんぜん、わかってないじゃない。」
だが、それは、無理からぬこと。
相手の在り様と、自分の在り様は違う。
ましてや、目的や環境が違えば、違うのは、当り前なのだ。
だから、違っていて、よいのだと、思うことだ。
違って、当り前。
違うから、その違いにより、お互いが学べ、進める。
時に、自分と違うから、応援したくなったりする。
尊敬もする。
自分と違うフィルターレベルだから、そっとその場から離れる、
も、ありなのだ。
自分の在り方を尊重するなら、相手の在り方も尊重する。
これも、『ねばならない』はない。
自分を傷つけたくないなら、こんな方法もあると言うことだ。
平和的な解決とは、こんなところだ。
仲間か、仲間でないかは、よく上から問われていた。
仲間であれば、お互いを尊重し合える。
大好きでいられる。
思いやれる。
ただ、それだけ。
この世界に数多(あまた)の智慧はあるが、己の『在る』に添うは、
己の『今』にのみ
どれも正しいと言えば、正しいのだが、
自分のフィルターレベルにおいて、それが正しいかと言えば、
在りようは違う
正しいか、正しくないか
添っているのか、いないのかは、あなたしかわからない
あなた自身があなたのフィルターレベルを体感することを
選び、今在る
だから、思いだすことだ
これは、『ねばならないではない』
どの選択も正しい
そして、前進しか存在しない
大きな変化は、自然の営みそのものであり
小さな変化は、ひとの世界にのみ存在する
だが、自然の中の変化に置いて、ひとの変化がある
自然に添う
それこそが、この地球(ほし)の営み、そのもの