前回の、自分の在り様は自分が決めるとあるが
自分 = 意識体 とは限らない。
環境などの因子により、選択のパターンが決まってくるからだ。
対・外の世界ー自分以外 用に自分を構築して、それを
自分としている場合もある。
環境因子でできた自分をそぎおとす。
一時期流行した、『自分探し』とは、このような場合は、有用
かもしれないが、
それも、自分のレベルでなければ、無用となる。
そして、夢を実現させるにも、この自分とかけ離れたものであれば、
願望が叶っても、そのひとは喜ばない。
今まで会った中で、特に、活動を始めた初期の頃は、
願いが短期間で叶えられ、こちらとしても、驚くくらいのことが
簡単に起きていた。
だが、叶ってみて、それがあまりに大きすぎたり、
本人の在り様と違っていたり
(この場合、本人にはそれを一度は告げて、それでも、
叶えたいと本人が望んだ。)
した場合、簡単に叶えられても、
その望みを簡単に捨てる。
だから、思い違いをしてはならない。
自分自身でいることへと、今のレベルで還る人がいて、
自分自身を見いだせず、叶っても、喜びを感じなければ、
自分の自信にもつながらない。
どのようなレベルであれ、よりよくありたいのであれば、
スキルを積むしかないのだ。
夢を叶えるには、時間をかけて勉強することが要求
される。
叶っても喜ばない人は、たいていは、勉強すること自体が
好きではない。
だから、そのようなひとへ、今のままで良いのではないかと、
お話しをするのは、勉強が必要であった場合、自分の資質上
勉強が好きでないのであれば、今の環境を変えたくない
のであるから、おすすめはしない。
それが、今のレベルだと思うからだ。
そして、環境を変えることにエネルギーを費やすことに
覚悟が必要であるなら、パワーがでないことは、
本質では、やりたくないことだと、感じているのだ。
この時、葛藤が生じる。
アタマでこれをするのだと思いこもうとしても、やがては、
ウツワである、カラダに負担がかかり、意識体と自分の
はざまで、うつわは暴走したり、オーバーヒートを起こし、
簡単に壊れてしまう。
だから、立ち止まることも、時には有効である。
進むべき時、立ち止まる時、個々の時間の取り方は、
さまざまで、比べられない。
だが、誰にも等しく、喜びはある。
その喜びの質もまた、さまざまだ。
今まで、ひとのために勉強をし尽くして、気がつく喜び以上
の家族の有り難さ。この有難さに感じ入って、学びを得ると、
ものごとの逆転は始まり、還るべき自分自身に在る
ことに気がつく。
この帰還もまた、喜び。
今もまた、願いが叶い、喜びを短期間で手にし、
その喜びを循環させているひとたちがいる。
こころに光を灯すことのお手伝いができることが、
我々のささやかな喜びでもあるのだ。
そうして、喜びは循環する。
波紋を広げ、ゆっくりと進んでいる。