自分のことのみに集中する。
自分の行きたい方向へのみ歩く。
そう決めると、生き方はとてもシンプルになる。
必要なものなどは、多くはない。
むしろ、持つべき荷物など、少ないに限る。
自分の在るべき姿でいる人の生活もまた、シンプルだ。
そして、ぶれない生き方を実践している人は、毎日、同じものを
食べている。
毎日、毎日、決まったものだけをカラダに入れる。
ほかはいらない、いれない。
生き方を決めると、シンプルな生き方におのずと変わっていく。
何年も、何十年も、同じことを続けられるひとほど、
同じもの、同じメニューのものを食べる。
同じものを食べることで、自分の感覚は磨かれる。
同じものなのに、味覚が違っていたりなどのサインに
気づく。
感覚はさらに、研ぎ澄まされるのだ。
自分自身で在ることの道を極めると、結果として、
思考はぶれないものだ。
選択がぶれなくなるのだから。
あれやこれやと迷っているうちは、自分の部屋も、
こころの部屋も、雑多で、外へばかり目を向け、
他者の生き方ばかりが気になり、思いやることなく、非難する。
そういう思考でいるから、自分へも思いやれない。
それが自分の生き方で、自分にはそんな生き方しかできない
と、言うのも、決めるのも、自由。
ただ、この世界はよくできていて、大事にするという思考を
持てないでいると、施餓鬼会に描かれるような亡者の面相に
なっていく。生き方もまた同じ。
自分で生き方を決めて、同じことを続けているが、
光に向かい、大事にすることを旨として続けるものと、
闇に棲まい、文句や非難を垂れ流すことを旨として続けるものの
行き先は、この世界にあっても、光を見るものには天国。
闇を見るものには地獄を体現できるのだ。
究極のシンプルな生き方は、真理のみ。
その他はいらない。