かんがえるのをやめる 思考をとめる
降ってきた感覚をことばにすると、こんな感じ。
在るのフィルターレベルまで来ると、受け取ることの本質が
理解できます。
選別せずにいられる。
オーダーどおりのものがすいすいと届けられる。
自分に対しても、他者に対しても、気をそがれることは
ありません。
心地良いままに、心地良い自分を選択せずとも、
そのように流れていきます。
とどまることはありません。流れのままに。
ただ、流れのままに。
かんがえるのをやめる 思考をとめる
降ってきた感覚をことばにすると、こんな感じ。
在るのフィルターレベルまで来ると、受け取ることの本質が
理解できます。
選別せずにいられる。
オーダーどおりのものがすいすいと届けられる。
自分に対しても、他者に対しても、気をそがれることは
ありません。
心地良いままに、心地良い自分を選択せずとも、
そのように流れていきます。
とどまることはありません。流れのままに。
ただ、流れのままに。
それらは、ただの出来事として、とらえることができるようになる。
それを善だの悪だの、いいわるいとして、選別をしなくなる。
選別をしないというのは、未来に対して不安を抱かなくなる
ということ。
わるいことでは・・・と思うから、不安になる。
それがなくなるのだ。
もともと明るいものだと捉えて歩けば、
その道は、明るい。
どのようなことにも、落ち着いて、あわてずにいれば、
善きことは、向こうからいつもやってきていることが
改めて体感として、自分の在りように変わっていく。
世界に在るは、ただ、ひとつ。
そのことが認識できるようになっていく。
だからこそ生きるとはかくも有り難いことなのだ。
自分の思考を整えたり、思考する環境を整える。
それは、正しく生きることでもある。
備えもったものに添って、あった生き方をする
ということ。
いろいろな因子が、この世界にはあり、
様々な創造されたものらにより、この世界はできている。
だが、そのすべてが自分用のものだと勘違いをする。
思考に因りすべてが作られるが、そのどれもこれもと、
選択を先にすると道を見失う。
自分を見失う。
混乱期であれば、さらに雑多な自分を受け入れ、それが進み、
流れに任せているからと、傲慢に思う。
自分の責任と、失敗をも受け入れ、雑多な思考を取り除く。
本生は
自分に正しくある。
自分の目的に正しくある。
そういう選択であれば、選択の結果は、そう多くはない。
あれこれと創造は、ひとの数ほどあるのだが、
創造自体も、フィルターレベルがある。
そのレベルに添い、準備がある。
レベル以上もよくないし、過小評価したレベルもまた、
居心地の良いものではないはずだ。
自分に正しく。自分の魂に正しくあれば、
導きもまた、正しい。
自分の道に正しい。
整えがすすんだお客さまに、ハイヤーセルフからの
声が聞こえた。
純化がすすめば、ハイヤーセルフの声が聞こえ、
自分に正しいことが理解できるようになる。
それもまた、ご自身が正しい導きを受け入れ、
マ酔うことが少なくなってきたからだ。
自分に正しい。
これは、自分の声に正しく導かれることでもある。
こころが雑多に在ると、いろいろな考えが動きます。
それは不平や不満そして批判や中傷、誹謗へと
マイナスエネルギーへと変換されていくことがあります。
こころがまったいらで、一点のみ
ひとつのことにだけ集中しているー一所懸命であればあるほど、
智慧がわき始めます。
智慧がわくと言うのは、問いとともにそこには答えがある状態。
そして、それが自分の本生となれば、問いすらもなくなります。
流れに任せられる状態とは、問いがなくなること。
すべてはうまくいっている。
それが当たり前の状態へと戻ったのです。
喜びとともに在る。
けれども謙虚もそこに置いておく。
それがながれにうまくのるコツでもあるのです。
つねに傍らにいてくださるみなさまとともに
感謝