このススキは愛知県の西三河地方の洪積台地を流れる小河川「追田川」で撮ったものです。
一帯はかつて「安城が原」と呼ばれ、キツネの走るススキ野原でした。
現代の私たちは「野原」と一般に言いますが、古い日本語では、「野」と「原」は別の意味をもっていました。「野」が単なる未墾地を指すのに対して、「原」は水が乏しく、農業もできない台地のことを指していたのです。かつての「安城が原」にはキツネしか住まないといわれるような荒寥たる草野が広がっていたのです。
わずかに台地の割れ目を流れる小河川から水を引き小規模な水田が開発されていましたが、水を引けないところは畑でした。そこはまた生い茂るススキとの戦いでした。
そのため早くから、あちこちでため池が開発され、ついにはため池の延べ面積は488町歩にもなったそうです。1町歩以上もある大きなため池は84か所にも及び、台地上の耕地の半分以上がこれらのため池に依存していたといいます。
(水土里ネット「明治用水 安城が原の苦難 荒涼たる草野」より)
この不毛の原野に川を堀り、矢作川から水を引きこもうと計画したのが、和泉村の豪農で代官もつとめた都築弥厚でした。弥厚は今では考えられませんが、領主や農民の猛反対にあい、志半ばにしてこの世を去りました。
それから30年後、その計画を受け継いだのが、伊予田与八郎と岡本兵松でした。安城ケ原用水とかよばれていたこの用水路は、1881(明治14)年、「明治用水」と名づけられました。市街地を横断している「追田用悪水」もその支流の一つです。
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