名画の修復は別として、絵画は通常別人の筆を受け付けない。
お母さんがクレヨンを持って仕上げる夏休みの宿題絵画ほどばかげたものはない。
文書が、書き手の書くものから、寄ってたかって作るものになってきたのは、いつのころからだろうか。
新聞や雑誌に投稿すると、こう直したらどうかとご親切に修文原稿が送られてくる。
弄り回した原稿では、文に秘めたというほどのことではなくても、読んだ人に感じ取ってもらいたいと、はじめに書いたことが消え去っている。
編集という仕事に熱が入りすぎて、添削に、もっとひどくなれば転作に変貌してしまうのだ。
支援活動が代行受託になりやすいのに、どこか似ている。
「もっと Google のサービス」に「ドキュメント」というのがある。
「オンラインで文書や表計算などを作成して仲間と共有」と、看板の添え書きがある。
ドキュメントを作るソフトをそれぞれが持たなくても、ここで作ればみんなが見られるという仕組みらしい。
共有ファイルは、共同で使うものにはたいそう便利なのだが、入り口の用心をよほどしっかりしておかないと、ドキュメントがドッキリメントになるかもしれないのである。