人気女優でエッセイも書いていらっしゃる室井滋さん。
自然体で、とても好感の持てる女優さんです。
室井さんが早稲田出身だと昔から知っていましたが、私が幼少時に住んでいたことのある滑川市で生まれ、そこから県立魚津高校に通ったということは最近になって知りました。
滑川市は、県庁所在地の富山市から東へ向かうJRの電車で20分程度の距離にある小さな町で、ホタルイカ漁で有名。
私の父が東京から転勤となったため、私は1歳から7歳までを滑川で過ごしました。室井さんは私の5歳年下ですから、同じ滑川市民として過ごした時期がある計算になります。
室井さんが高校に通った魚津市は、滑川から東へ電車で10分弱の隣町で、海岸から蜃気楼が見えることで有名。
魚津高校は、1899年(明治32年)に旧制富山県第三中学校として創立された伝統校です。(ちなみに一中は現・富山高校、二中は現・高岡高校)
ところで、滑川時代、私の父の同僚Hさんの息子さんで、いつも近所の子供たちと一緒に遊んでくれた4歳年上の優しいお兄さんがいまして、僕らは「みっちゃん」と呼んでいました。
みっちゃんも、室井滋さんと同じ魚津高校-早大の道を歩み、卒業後は野村證券に入社されました。
早大在学中、みっちゃんは神楽坂に下宿していて、目黒区の我が家に何度も遊びにやってきました。
私が高校受験を目前にしていた時、早大商学部一年生のみっちゃんが私の勉強部屋にやってきて、机の上の高校受験の問題集をパラパラめくりながら、「ふーん、灘や開成の入試問題も、大学受験よりはやっぱり易しいね」と現役大学生の貫禄と余裕を見せつけ私を悔しがらせたり。
そして私が高校に入った後に、やはり私の勉強部屋に入ってきて、「ねえ、ひょっとしてタバコ持ってない? 持ってたら一本ちょうだい」と貧乏学生の正体を見せたりと、4歳違いといっても幼なじみはいいものです。
野球ファンが魚津高校と聞けば、まず思い浮かべるのは1958年(昭和33年)の夏の甲子園準決勝。
魚津高校・村椿輝雄、徳島商業の坂東英二の両投手の投げ合いによる延長18回引分け再試合の激闘でしょう。
余談になりますが、同じ年の春の四国大会で、坂東投手は二日連続の延長戦で合計40イニングを1人で投げ切りました。
この力投があまりに選手に過酷なのではないかということになり、高野連は延長は18回までという規定を新設。
その規定が初めて適用されたのが、またしても坂東投手の投げる魚津高校との試合であったということですから、運命の巡り合わせとは面白いものです。
さて、そんな球史に残る名試合だったわけですが、当時2歳だった私には、残念ながら試合の記憶は全くありません。
恐らく滑川市内でも、魚津高校の大健闘に熱狂していたはずなのですが。
したがって、私が「魚津高校」と聞いて最初に思い浮かべるのは、薄暗い森に探検に行ったり、線路端の土手にツクシ採りに行ったり、稲刈り後の田んぼで三角ベースをやったり、雪の積もった川沿いの斜面でスキージャンプの真似事をやったりして遊んでくれた、そして早稲田の先輩でもある、優しいみっちゃんです。
みっちゃんは、今は富山に戻られて、宇奈月に住んでいらっしゃいます。
みっちゃんも、あと数年で還暦です。
自然体で、とても好感の持てる女優さんです。
室井さんが早稲田出身だと昔から知っていましたが、私が幼少時に住んでいたことのある滑川市で生まれ、そこから県立魚津高校に通ったということは最近になって知りました。
滑川市は、県庁所在地の富山市から東へ向かうJRの電車で20分程度の距離にある小さな町で、ホタルイカ漁で有名。
私の父が東京から転勤となったため、私は1歳から7歳までを滑川で過ごしました。室井さんは私の5歳年下ですから、同じ滑川市民として過ごした時期がある計算になります。
室井さんが高校に通った魚津市は、滑川から東へ電車で10分弱の隣町で、海岸から蜃気楼が見えることで有名。
魚津高校は、1899年(明治32年)に旧制富山県第三中学校として創立された伝統校です。(ちなみに一中は現・富山高校、二中は現・高岡高校)
ところで、滑川時代、私の父の同僚Hさんの息子さんで、いつも近所の子供たちと一緒に遊んでくれた4歳年上の優しいお兄さんがいまして、僕らは「みっちゃん」と呼んでいました。
みっちゃんも、室井滋さんと同じ魚津高校-早大の道を歩み、卒業後は野村證券に入社されました。
早大在学中、みっちゃんは神楽坂に下宿していて、目黒区の我が家に何度も遊びにやってきました。
私が高校受験を目前にしていた時、早大商学部一年生のみっちゃんが私の勉強部屋にやってきて、机の上の高校受験の問題集をパラパラめくりながら、「ふーん、灘や開成の入試問題も、大学受験よりはやっぱり易しいね」と現役大学生の貫禄と余裕を見せつけ私を悔しがらせたり。
そして私が高校に入った後に、やはり私の勉強部屋に入ってきて、「ねえ、ひょっとしてタバコ持ってない? 持ってたら一本ちょうだい」と貧乏学生の正体を見せたりと、4歳違いといっても幼なじみはいいものです。
野球ファンが魚津高校と聞けば、まず思い浮かべるのは1958年(昭和33年)の夏の甲子園準決勝。
魚津高校・村椿輝雄、徳島商業の坂東英二の両投手の投げ合いによる延長18回引分け再試合の激闘でしょう。
余談になりますが、同じ年の春の四国大会で、坂東投手は二日連続の延長戦で合計40イニングを1人で投げ切りました。
この力投があまりに選手に過酷なのではないかということになり、高野連は延長は18回までという規定を新設。
その規定が初めて適用されたのが、またしても坂東投手の投げる魚津高校との試合であったということですから、運命の巡り合わせとは面白いものです。
さて、そんな球史に残る名試合だったわけですが、当時2歳だった私には、残念ながら試合の記憶は全くありません。
恐らく滑川市内でも、魚津高校の大健闘に熱狂していたはずなのですが。
したがって、私が「魚津高校」と聞いて最初に思い浮かべるのは、薄暗い森に探検に行ったり、線路端の土手にツクシ採りに行ったり、稲刈り後の田んぼで三角ベースをやったり、雪の積もった川沿いの斜面でスキージャンプの真似事をやったりして遊んでくれた、そして早稲田の先輩でもある、優しいみっちゃんです。
みっちゃんは、今は富山に戻られて、宇奈月に住んでいらっしゃいます。
みっちゃんも、あと数年で還暦です。