1リットルサイズのボトルと「1786年」という歴史のあるラベル。
そして『コルク栓』。
ヴェルモットを飲み飽きた方やワイン好きな方、また食前酒にもオススメです。
製造後ボトリングされず、タンク内で1~2年の熟成後に瓶詰めされています。
味わいは豊かで深く、フィニッシュはほろ苦い。
まずはストレートで飲んでいただきたいと思ってます。
カクテルにするなら、フレッシュオレンジを少しドロップするか、
ジンでより味を引き締めるのを良いでしょう。
今年2月に山崎蒸留所に見学に行った時、熟成庫の中の掲示板や
パンフレットに「ウィスキーは人に優しいお酒」と書かれていました。
今日はそのご紹介を・・・
1.低カロリー
蒸留酒なので、糖分が少ない。同じアルコール量の日本酒と比較すると糖分は約1/350
2.酔い覚めスッキリ
飲用時に血中アルコール濃度が上昇しにくいのでアルコールが抜けやすい
3.香りでリラックス
豊かな香りで、「森林浴」のように心身をリラックスさせる
4.プリン体がほとんどない
プリン体からの尿酸生成も抑制され、尿酸を排出する作用もある
5.ポリフェノール
長い年月をかけて樽で熟成する中、樽材からのポリフェノールが溶け込む
また最近読んだ「THE Whisky World vol.5」の記事では
「熟成した良酒は悪酔いしない」ということに研究されたとの内容。
詳細を知りたい方はご購読してください
で、研究の結果は長期熟成したウィスキーほど、悪酔いや二日酔いの原因となる有害物質「アセトアルデヒド」が生成されにくい。
との事です。
だからといって、飲みすぎちゃ意味がない。
長い間、良酒と上手く付き合ってもらいたい・・・
また、お酒とは酔うまでのプロセスを愉しむ物ではないのだろうか
ウィスキーの五大産地はスコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダそして日本。
ジャパニーズウィスキーの歴史は・・・
1853年アメリカのペリーが浦賀に来航し入港した際、
日本の役人たちにウィスキーを振舞ったと記録されています。
1868年の明治維新後の1871年にウィスキーを初輸入されます。
当時ウィスキーは薬用酒的な扱いだった・・・品質は粗悪なものだったらしいが。
1900年頃の洋酒は中性アルコールに甘味料や香料、カラメル色素を加えたイミテーションばかりで、この時代が長くは続かないと感じた摂津酒造は
一人の男をスコットランドに留学させます。
その人が日本のウィスキーの父「竹鶴政孝」。
1918年 竹鶴政孝氏は単身、アメリカ経由でスコットランドのグラスゴー大学に入学。
留学中、竹鶴氏はあちらこちらの蒸留所へ足を運び製造法を学びます。
ロングモーンやヘーゼルバーンなど・・・
特にロングモーン蒸留所では、蒸留器を叩いてその反響で蒸留の進み具合を知るコツを体得したという。
※ちなみにアイルランドがウィスキーの発祥であると記した文献
「ヘンリー2世率いる兵士が、アイルランドの地元民がアクアヴィテを飲んでいた」
これを記述したネトルトン氏に実際に竹鶴氏は会ってウィスキー造りを学ぼうとしたが、法外な金額を言われ断念したらしい。
1921年 竹鶴氏は帰国。
本格的なウィスキー造りを目指そうとした竹鶴氏(摂津酒造)に、
戦後の不況が待ったをかけます。
竹鶴氏は摂津酒造を退社。
しかし、「どうしても本格的なウィスキー造りをやってみたい」という寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎氏の申し出を受け、10年間の契約で入社。
1923年 日本初のウィスキー蒸留所「山崎蒸留所」開設。
1929年 日本初のウィスキー「白札」発売。
1934年 竹鶴氏は10年間の契約期間を終え、退社。
竹鶴氏は独立し、自らが求めるウィスキー造りを追求すべく、
スコットランドに似た気候、風土、良質の水のある北海道の余市に
大日本果汁(後のニッカウヰスキー)を創業する。
※ ちなみに、「大日本果汁」の「日果」から「ニッカ」と名づけられた。
鳥井信治郎氏と竹鶴政孝氏、理想の国産ウィスキーを目指す二人。
竹鶴氏は、スコットランドに留学したことからスコッチに忠実なウィスキー造りを追求し、一方 鳥井氏は、日本の風土にあった日本人に愛されるウィスキー造りを追い求めた。
その後、軽井沢蒸留所(1955年)、ニッカ 仙台・宮城峡蒸留所(1969年)、サントリー白州蒸留所(1973年)、キリン御殿場蒸留所(1973年)と次々と創業していきます。
これからのジャパニーズウィスキーのさらなる発展に期待が持てます 。
カナダでは17~18世紀にフランスやオランダからの移民たちが
ブランデーやジンを製造していた。
1776年のアメリカ独立宣言に反対したイギリス系の住民が、
カナダに移民しライ麦や小麦などを栽培し始める。
五大湖周辺で製粉業が発展し余った穀物から、
加工品としてウィスキーを製造していきます。
製粉所がウィスキー蒸留所を兼ねるようになります。
1920~1933年のアメリカ禁酒法時代に「アメリカのウィスキー庫」
として大量に製造し密輸する。
おかげで、カナディアンウィスキーの全盛期を築くことに。
今でもアメリカではバーボン以上にカナディアンウィスキーが飲まれているらしい。
1980年以降、ハードリカーの低迷でアメリカでのウィスキー消費が落ち込み、
蒸留所の統廃合が相次ぎ、そのため全盛期200近くあった蒸留所が現在は9つしか残ってない。
1776年アメリカの独立宣言~1783年
この独立戦争でウィスキーの歴史は繰り返されます。
この戦争を嫌がったスコッツ・アイリッシュたちや
戦争による財政難に陥ったアメリカ政府のウィスキーに対する重税に
不服と思ったスコッツ・アイリッシュたちが、
カナダや当時はまだ国外の西部地区へ逃げ、密造を始めます。
この増税に反対した者たちが、1794年に 「ウィスキーの反乱」を起こしたほど・・・ この反乱がいかに凄まじかったかというと、独立戦争時の兵士の数12000人に
対し、暴動鎮圧のために政府は15000人の軍隊を派遣したくらい。
独立戦争より内紛を抑える方が多かったとは・・・。
そして、逃げてたどり着いた先の現在のケンタッキーやテネシーには
豊富なトウモロコシと良質な水ライムストーン・ウォーターと出会い新しいウィスキー造りを始めます。
面白い事にウィスキーに課税をし、蒸留者たちの暴動鎮圧を指揮した
初代大統領ジョージ・ワシントンは、なんと自ら自宅でせっせとウィスキー造りをしていた。
しかも、5基のポットスチルを用いて・・・晩年には、販売までしていた。
そして 独立戦争でアメリカ側に味方したのが、当時イギリスと植民地争いをしていたフランス。敵の敵は味方・・・ならば、独立側へ。
そのフランス軍のおかげで独立を得ることができた。
その功績を称えて当時フランスはブルボン王朝だったことから、
ケンタッキーの郡の一つの村の名前を「BOURBON」と名づけた。
いつしか、バーボン村で造られるウィスキーはバーボンウィスキーといわれるようになりました。
当店の野球チームです
休日は、ほぼ野球をしてます。
チームはなかなか弱く(号泣) まだ勝つにはほど遠~い状態ですが、
平均年齢32歳ながら精一杯やってます。
そんな中、今日はリーグ戦に出場!!
メンバーがギリギリ9人
しかも、先発はローテーションの谷間の私!?
結果は10-3で大敗 コールド負け!!
しかし!!メンバーの「背番号0番」の彼にこの日、バッティングの神様が突然舞い降りました(普段は三振ばかりですが・・・^^;)。
第一打席 ランナー1.2塁で今季初ヒットが3ランホームランw
今季チームでも第一号ホームラン!!
第二打席 強烈な当りのサードライナー(惜しかった)
今日のチームのヒーローは、「0番」ですねw
負けたんだから、少しは凹んでもいいはずですが、写真の通り 皆ヘラヘラしてます。 今季初勝利はいつになるコトやら・・・
アイルランドは1172年にヘンリー2世に侵攻され、1801年にイングランドに併合されるまでイングランドの植民地的扱いをされていたような国。
現在、蒸留所はブッシュミルズ、ミドルトン、クーリーの3つだけ。
1608年に「国王ジェームズ1世の代理人である北アイルランド総督から、アントリムの領主サー・トーマス・フィリップスに蒸留免許が与えられた」ということから、
ボトルのラベルに「1608年」の文字。世界最古の蒸留所を謳うブッシュミルズ・・・
しかし、ブッシュミルズ蒸留所の創業は1784年。
1750年以降からぞくぞくと蒸留所が創業。ブルスナ、ボウストリート、ジョンズレーン・・・1887年には28ヵ所の蒸留所が存在した。
ちなみに同時期にスコッチ蒸留所は129ヵ所
『The Whisky Distilleries of The United Kingdom by Alfred Barnard』より
アイリッシュの全盛時代はスコッチ同様、フィロキセラ病がきっかけでした。
蒸留技術はスコッチ以上、革新的でした。
※フィロキセラ病...ブドウネアブラムシ。この昆虫がぶどうの根に寄生し、根や葉に刺して樹液を吸う。刺された樹木は徐々に弱り、5年くらいで枯れてしまう病気。
3回蒸留、ノンピート、アイルランド産の安い大麦を使い、また大麦麦芽以外の穀物を使う技術、巨大な蒸留所でアメリカを市場に大量販売。
しかし技術が進んでいたため、連続式蒸留機にアイリッシュは見向きもしなかった。 皮肉にも連続式蒸留機を発明したスコットランド人のロバート・スタインは
アイルランドのダブリンの蒸留所で働いていた人。
また、連続式蒸留機を改良したイーニアス・コフィーはフランス生まれの
アイルランド人。
それだけに、機械に頼らず技術でやれると思ったのだろう。
では、なぜアイリッシュが衰退したのか?・・・
スコッチブレンデッドの誕生も天敵だったはず。
1919年にアイルランドはイギリスから独立をかけて戦争。
1922年 アイルランド自由国の設立、北アイルランドの分離。
その報復として大英帝国の商圏からアイリッシュを締め出しし、
イギリス、カナダ、アメリカ、インド、オーストラリア・・・の市場とアメリカ禁酒法で失ってしまったからだと考えられています。
ウィスキー業界が大きく変化する出来事は、1860年の酒税法改正。
「保税倉庫内の異なる蒸留所のウィスキーのブレンドが可能に・・・」要するに、
今までは同じ蒸留所のもの同士しか混ぜ合わせてはいけなかったのが、
他の蒸留所の物も混ぜ合わせていいと改正されたということです。
これによりブレンデッドウィスキーが誕生していきます。
しかし、まだ当時はスコッチウィスキーの存在は世界には広まってはなく、
スコットランドの地酒にしかすぎなかった・・・
ところが、スコッチウィスキーに追い風が吹きます。
1877年にフィロキセラ病でフランスのブドウの樹が全滅。
イングランド貴族が愛飲していたワインやブランデーが不足し、
その貴族たちがウィスキーに着目します。
個性の強いモルトとクセのないグレーンを混ぜ合わせた、
口当たりのいいブレンデッドウィスキーがロンドンで大流行。
19世紀 ロンドンは世界の首都と呼ばれた都市、
瞬く間に世界に広がっていきました。
しかしスコッチウィスキーにひと悶着がありました。
1905年の「ウィスキー論争」です。
グレーンウィスキーをウィスキーと認めないという裁判が起きる。
いち早く連続式蒸留機を取り入れたローランドの業者vsポットスチルにこだわるハイランドやアイルランドの業者。
1909年に37回の審理を経てグレーンもスコッチであると容認され、その後戦争によって蒸留所の稼動数の激減があったが、現在は100ヵ所ほどの蒸留所がたくましく稼動し続けてる。
日曜日に余市蒸留所へ見学に行ったことから、
今週はウィスキーについて、ちょっと固いお話をさせてもらいます。
それでは、スコッチウィスキーから・・・
「ウィスキーの発祥は?」と聞かれると、はっきりした答えは出ません。
アイルランドかスコットランドに間違いないのでしょうが・・・
「発祥はアイルランド」と断定してある本が大半
それはこの文献から「1172年にヘンリー2世がアイルランドへ遠征。そのときの兵士が、地元民がアクアヴィテ(蒸留酒)を飲んでいた」
という記述を元に、ウィスキーはアイルランドが発祥の地だと記されている。
・・・が、しかしこれを記述した「ネトルトン」という人物は、何を根拠にどの文献から、こう記述したのかは不明。
原本が見つからないらしい。
また、この蒸留酒は何を原料に蒸留したのかも不明。
ワインなのか・・・エールなのか・・・それとも大麦麦芽なのか。
そして、スコットランドでは1494年に「修道士ジョン・コーに8ボル(約500kg)の麦芽を与えてアクアヴィテを造らしむ」と記録(スコットランド王室財務省文書)
原料に大麦麦芽、そして蒸留。これぞ ウィスキー!!
スコットランドでは1494年をウィスキー誕生の年となっている。
定かではないですが、アイルランドやスコットランドではこの前よりウィスキーは造られていたのでしょう。