DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

エンコって何?

2013-03-26 16:52:23 | ButsuButsu
エンコって知ってますか。

ウィキペディアには以下のように書かれている。

(1)座ることをいう幼児語で、しりをつき、足を前に出した座り方のこと。
(2)自動車等が故障して動かなくなること(エンジントラブル)の通称。
(3)全米統一商標としてEnergy Company(燃料会社)の略として採用した店舗ブランド「Enco(エンコ)」。
(4)エンコード・エンコーダーの略
(5)河童の別名
(6)ヤクザの用語で指のこと。指を詰めることを「エンコ詰め」と呼ぶ。

俗語辞書では

(1)エンコとは援助交際の略。
(2)公園のこと。コウエンをひっくり返した倒語。

なども挙げられている。

にこにこ大百科ではこれ以外に、

(1)血縁などのつながり、またその人。
(2)円周の一部。弧。
(3)水に塩分が含まれる湖。
(4)ブラウザ「Firefox」の通称。
(5)漫画『マテリアル・パズル』の登場キャラクター・ミカゼの必殺技。

などがある。

ところが、大津市瀬田の唐橋付近では違う意味を持っている。

昭和30年代ごろまで点在し枯渇したとみられていた自噴式井戸を「エンコ」と呼んでいる。

それが最近復活して、水が出るようになったという。

元東大地震研の佃先生に誘われて、今日、エンコを見に行った。

案内していただいたのは、瀬田唐橋まちづくりの会の村田譲さんだ。

なぜエンコというのかはよくわかっていないらしい。

確かに、町のそこかしこで鉄分を含んで茶褐色の色をした水があふれ出ていた。



ここ水温は16.4℃だった。

まあ、これくらいならありうるかな。

最初はそう思っていたが、圧巻だったのは最後に訪れたお宅だった。

秒20リットルくらいの水がとうとうと流れ出ている。



写真は、エンコと村田さん。

村田さんの話だと、最近付近の工場が地下水を使わなくなったので再び流れ出したのではないか、ということだった。

しかし、佃先生と私はちょっと違う意見を持っていた。

おそらく地殻活動の変化のせいだろう。

今、この一帯も縮みはじめている。



この図は大津と野洲の距離を示している。

おそらくこのせいだろう。

さっそく、水温を計ってみた。



数回の平均値は、19.8℃だった。

すごい、明らかに深い場所から来ている水だ。

地震学者の佃先生はこの井戸もモニターするらしい。

今日はエンコの新しい意味を学んだ有意義な日だった。

この言葉は、近隣の石山でも使われていないとのこと。

おそらく瀬田のごく一部で通用する言葉だろう。

とてもローカルな方言のお話でした。
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チベット紀行-14

2013-03-26 10:02:56 | ButsuButsu
世の中には、可能ならばやってみたいことがいくつかある。

エベレストを裏側から見てみたい。

1995年にネパールに行ったとき、そんなことを思った。

それがこうして実現するとは、思いもよらなかった。

2001年5月13日、6年の歳月がたっていた。

この山の古い名称は、チョモランマといった。

チベット族の呼称である。

7時30分 起床、快晴である。

9時00分 出発

10時25分 UV=4820μW/cm2、標高3920m。ひたすら走る。



10時58分 標高4014m

11時50分 峠に着く。UV=5620μW/cm2、標高4533m。

12時50分 UV=5750μW/cm2、標高4045m。

拉孜(ラツェ)に着く。昼食に拉麺を食べた。

13時53分 車の修理。



UV=5840μW/cm2、標高4056m。

水があるところには、植物も生えている。



15時08分 嘉錯拉山 5220m。

高さにマヒしてきた。

16時30分 休憩 4709m。

北緯28度48.429分、東経87度16.652分。

17位50分 検問で通訳のラジさんが追い返されてきた。

許可証がないらしい。



北緯28度38.265分、当家87度10.581分、UV=4720μW/cm2、標高4337m。

ドライバーとラジさんが許可証をもらいに行く間、我々は待機となった。

近くの子供がアンモナイトの化石を売りに来た。

10元だった。

暇だったので河原で化石拾いに興じた。

19時30分 二人が帰ってきた。

20時00分 定日(ティンリ)に到着。



今日はここで宿泊する。

遠くにチョモランマが見えた。



ベッドの窓からずっとチョモランマを眺めながらいつのまにか眠りについた。

寒かったけれども、至福の時間だった。
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3月25日(月)のつぶやき

2013-03-26 04:34:12 | 物語
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びわ湖の虹

2013-03-25 22:02:15 | ButsuButsu
びわ湖には虹が多いのですか。

放送局のディレクターに聞かれた。

そういえば、私の琵琶湖の画像データーベースには虹の写真が多い。



これは竹生島に虹がかかったときの写真である。

弁才天を祭ったこの島に、確かに虹は良く似合う。

この弁才天は、日本三大弁才天の一つである。

彼女は胸に楽器の琵琶を抱えているので、琵琶湖とかけているのかもしれない。

ヒンドゥー経のサラスヴァティーが語源であるとされている。

芸術や学問をつかさどる女神である。

いったいいつからこの地に祭られているのだろうか。

8世紀前半に行基が聖武天皇の勅命で彫刻したといわれている。

だとすると、ずいぶん古くからインドの影響を受けていたことになる。

そう言えば、金比羅というのもサンスクリット語のクンピーラが語源で、ワニの神で航海の安全を司ると聞いた。

これらはおそらく仏教の伝来と共に伝えられたのだろうか。

それとももっと古くからの交流があったのだろうか。

考えるだけで歴史のロマンがあふれ出る。

虹がかかるのは雨上がりの時だから、そんな時間にびわ湖上にいることはまれだと思うが、はっけん号を購入したら一緒に見に行こうか。
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チベット紀行-13

2013-03-25 17:38:08 | ButsuButsu
5月12日

6時45分 羊卓雍(ヤムドゥク)錯へ向けて出発する。

途中で、李先生がホテルにゴムボートを忘れたことに気が付くが、後の祭り。

仕方がないので、船は現地調達することにした。

羊卓雍錯は、今回調査した湖の中で、唯一の氷河湖である。

チベット4大聖湖の一つと言われている。

ラサから車で2時間30分、標高4802mのカムバ・ラ峠に着くと、突然眼下に羊卓雍錯が広がる。

チベット語で「トルコ石の湖」と呼ばれるだけに、背景にヒマラヤ山脈を移す湖面は、青白く輝いて我々の心を魅了した。



熱心に写真を撮っていると、どこから来たのか大勢の子供たちにとりかもまれてしまった。

彼らの写真を撮ると、撮影代をねだられた。

ラサに近いだけに、さすがに観光慣れをしている。



9時18分 湖に到着する。標高4447m。

10時10分 船がやってきたので調査に出かける。

UV=3790μW/cm2からUV=4840μW/cm2へと変化してきた。

青空である。

ハドと私は金属製の船に乗った。

李と藤村は、羊の皮を張った船だ。



湖上の標高は4452m。

北緯29度10.820分、東経90度35.919分だ。

羊卓雍錯の水温は、表面で6℃、水深30mで4℃だった。

表面積は678平方キロメートルで琵琶湖より大きい。

最大水深は59mだそうだ。

貯水量が160億トンだから、結構大きな湖である。

チベット高原では2番目に大きい淡水湖である。

11時40分 調査終了。 UV=5550μW/cm2。

魚を手に入れた。

チベット人は魚を食べないが、中国人が漁をするらしい。

12時35分 出発する。

14時07分 5050mの峠に着いた。

15時15分 休憩。標高4383m。

16時05分 白居寺に着く。標高4053m。

この寺は、1418年に建立された。



18時35分 給油。UV=3930μW/cm2。

汽油 3.21元

柴油 3.32元

ディーゼル油のほうがガソリンより値段が高くなっていた。

高所ではガソリン車よりディーゼル車のほうがタフであるからだ。

19時00分 圣康飯店で宿泊する。 標高3850m。
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3月24日(日)のつぶやき

2013-03-25 04:54:46 | 物語
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日本の文化

2013-03-24 10:50:18 | ButsuButsu


日本の文化は、パーツの集合なのだと思う。

面白いことに個々のパーツはひどく精巧に出来ている。

そのことが、特徴でもある。

種々雑多な文化の寄せ集めであっても、個々のパーツが完成していれば全体のバランスはあまり気にしない。

というか時間をかけて統合化することが苦手なのだろう。

社会システムそのものがそうなっているし、大学でも教えていない。

基本ソフトを組むのも下手である。

組み上げても、比較的早い段階で破綻してしまう。

時間スケールも、空間スケールも、箱庭サイズなのだろう。

だからすぐに結論を求めたがる傾向が強い。

少し立ち止まってこれからのことをゆっくり考えたいと思うのだけれども、生活のスタイルがそれを許してくれない。

先日、友人のオーストラリア人が研究室にやってきた。

確か、50歳くらいだと思う。

彼は、大学との契約があと一年で切れるから、その後はリタイアするのだという。

「日本人的なリタイアではないけどね。」と笑いながら言った。

今、彼は資産を1億円持っていてオーストラリアの銀行に預けている。

利子が年6%あるので、それだけで生きていける。

それに美術関連の巨大なデータベースを構築していて、その利益も大きいのだという。

残りの人生を悠々自適に暮らすのだという。

日々、汲々として暮らしている身としてはうらやましい限りである。

考えてみれば、自分の家を買うだけで多額のお金を銀行に払い続けてきた。

いったい何の為に、誰のために働いてきたのだろうか。

刹那的な美学の中に日本の文化があるとするのならば、リタイアそのものが人生の終わりだったはずだ。

生活や医療が変化したおかげで、平均寿命がずいぶんと延びてきた。

日本の文化も、もう少し長い時間、広い世界観の中で再構築したほうが良い気がする。

今、私は、人間の存在に関わる理論を考えている。

人間の大きさをl、活動空間の大きさをLとした時、x=l/Lというパラメーターが大きな意味を持つ。

そして存在ポテンシャルをφ=φ(x)=x/(1-x)と定義すると、面白いことが分かってくる。

活動空間を小さくすればするほど、φは大きくなるが逆に存在リスクが大きくなる。

逆の場合には、存在ポテンシャルが小さくなり存在リスクも減る。

日本の社会は、前者である。

壮大な宇宙空間で、われわれが生きている世界は決して広くない。

むしろ閉じ込められた世界にいるといっても良いだろう。

その中で繁栄し、滅亡する道を選ぶとするのならば、存在ポテンシャルは高いほどよい。

ちょうどルーレットのギャンブルに似ている。

一つの数に全財産をかけて短時間でゲームを楽しむのか、多くの数に分散してかけて少しでも長く楽しむのか。

期待値が最も高いのは前者だが、すべての人をハッピーには出来ない。

考えなければならないことは、私たちは自分だけで生きているのではなく、子孫や他の世界の人々と共に生きている点である。

そうだとすると、解は一つしかない。

活動空間Lを可能な限り大きくすることだ。

ただ無制限に大きくすることは出来ない。

それを決めるのはおそらく資源なのだろうと思う。

資源は有限なのだから、どこかに最適な解が存在するのだろう。

科学技術とは、それを求めるためのツールに過ぎない。
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3月23日(土)のつぶやき

2013-03-24 04:58:03 | 物語
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寺本英先生と私

2013-03-23 18:03:06 | ButsuButsu
寺本英先生は、私の直接の指導教官ではない。

先生の専門は生物物理学だし、私の専門は地球物理学だ。

しかし、寺本先生は私の人生における師であった。

今年は、先生が逝去されて17回忌にあたる。

かなり個人的な関係になるが、思い出話を書くことをお許し願いたい。

1970年、幸運なことに私が京都大学理学部に現役で入学したとき、最初に訪ねたのは寺本先生の研究室だった。

母親に強く勧められたからであった。

先生は島根県松江市の出身で、私の母校である松江北高校の前身、松江中学の卒業だった。

先生は第三高等学校を出て、京都帝国大学に入学後、湯川秀樹の門下生となった。

理学部物理学教室で、エネルギーエントロピーを担当されていた。

以前にもブログに書いたことがあるが、当時、父の妹が岡崎にあった上野病院で看護婦をしていた。

この病院が、寺本先生の奥さんの実家である。

三高時代に貧乏だった寺本先生は、戦後まもなく、京都市東山区泉涌寺にあった上野家の畑の夜番をしていた。

食料のない時代に、サツマイモを盗みに来る輩がいたので、番人が必要だったのである。

アルバイトが終わると、先生は泉涌寺から左京区吉田の寮まで歩いて帰ったらしい。

父の弟であった叔父が、泉涌寺の塔頭で住職をしていた。

上野家の畑のすぐ近くである。

寺本先生に差し入れで一升瓶をそっと渡すと、先生は東大路を通って帰宅する途中で空にしたらしい。

それほどに大酒飲みだった。

私が最初にお会いしたとき、先生はまだ44歳だったと思う。

第一印象は、懐の深い人だと思った。

先生はよく私を木屋町にある女波(めなみ)という飲み屋に連れて行ってくれた。

近藤正臣さんのお母さんがやっていた店である。

今は改装してずいぶんきれいになっているが、昔はもっと風情のあるおばんざい屋さんだった。

先生について語りたいことは山ほどある。

私が人生の岐路で決断を必要としたとき、そこにはいつも寺本先生の姿があった。

1976年、山登りの仲間と南アメリカにあるアンデス山脈とアマゾン河へ遠征することになった。

先生に相談に行ったら、「ぜひ行ってこい。」と言われて背中を押してもらった。

そして、東京大学の寺田和夫先生を紹介してもらった。

寺田先生は文化人類学者で、アンデス文明の研究をされていた。

「未開の地に研究者が赴くのは、侵略者が行くよりまだ救いがある。」と教えてもらった。

よくわからない論理だったが、なんとなく納得した。

1983年、琵琶湖研究所に就職するときに寺本先生に推薦者となってもらった。

吉良所長に直接電話して、決断を促してもらった記憶がある。

1993年、BITEX(琵琶湖国際共同観測)を行ったとき、お金が足りないだろうと言って50万円ほど研究費をカンパしてもらった。

おかげで世界中から177人の研究者や学生が集まり、一か月間の共同観測をすることに成功した。

先生が龍谷大学に移られてから、一緒にびわ科学懇談会という集まりを立ち上げたりもした。

その時に話された、数理生態学的視点から評価した食物連鎖の話は興味深くまだ記憶に残っている。

1996年2月7日に、先生は他界された。

あれから17年がたつ。

シャイで、ダンディで、そしてとても誠実な人柄だった。

先生からいただいた一通の手紙を今でも大切に持っている。

それはわざわざ速達で届いたものだった。

私をある賞に推薦したが、選考の結果、落選したという内容だった。

大先生が、私のような未熟者のことをかくまで支援していただいたことに頭が下がる思いだった。

このように私は良き師に恵まれた。

そのことが誇りであり、財産でもある。

だから、若い人にはなるべく親切でありたいと思っている。

人は死ぬときは一人だが、生きているときは一人ではないからだ。
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チベット紀行-12

2013-03-23 15:20:40 | ButsuButsu
30歳の誕生日のときには、イギリスのサウサンプトン大学にいた。

ブライアンとマーガレットの家族が盛大に祝ってくれた。

50際の誕生日には、チベットのラサにいた。

5月11日、不思議な縁だと思う。

ずっと調査旅行中だったので、この日にラサに到着したのは全く偶然だった。

心が引き締まる思いだった。

7時40分 起床。少し仕事をする。

9時00分 朝食。

10時10分 デブン(デボン)寺に行く。



標高3793m(入口)~3874m(頂上)に位置する。

珍しく犬を見た。



12時00分 市内で昼食。チキンカレーを食べた。

14時10分 通訳であるラジさんの家を訪問。

その後、市内のレストランへダンス見学と食事に出かけた。



豪華なチベット料理も待っていた。



サプライズもあった。

メンバーが私のために誕生パーティを企画していたのだ。



チベット語で書かれたケーキが運ばれてきた。

そして、私は皆さんに厳かに誓った。

今日から「ダライ・クマ」と呼んでほしいと。

ダライとはモンゴル語で、海のように深い知恵のある人、という意味だそうだ。

そんな人になりたいものである。



その後、ずっとダライ・クマと言っているが、おかげで音信不通になっていた古い友人から突然メールが届いた。

「ダライ・ラマを検索していたら、お前のことがヒットした」と。

ちなみに彼は北大で仏教哲学を研究していた。

ダライ・ラマさん、ごめんなさい。
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3月22日(金)のつぶやき

2013-03-23 04:52:26 | 物語
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琵琶湖における大規模調査

2013-03-22 20:04:26 | ButsuButsu
1.琵琶湖生物資源調査団(BST:Biwako Survey Team)

(1)主催 建設省近畿地方建設局ならびに水資源開発公団
(2)調査場所と期間 琵琶湖全域、1962年~1965年
(3)目的 堅田−守山の線上にダムを造って琵琶湖を区切り、南湖の水位を0~+0.3mで一定に保ち、北湖の水位を-3.0m~+0.3mの間で変動させて、下流への放流量を常時毎秒44t以上とする場合に想定される、北湖・南湖の締めきりと水位変動が水産生物に及ぼす影響評価を行いました。
(4)代表者と主な参加者 宮地伝三郎(代表)、森主一、川那部浩哉、根来健一郎、生嶋功、渡辺仁治、山元孝吉、津田松苗、水野寿彦、原田英司、林一正、三浦泰蔵、須永哲雄、浦本昌紀、門田元、柳島静江、森川光郎、藤永太一郎、堀江正治、西條八束、坂本充、伊藤隆、倉田亨など参加総人数60人
(5)主な調査項目 生物生産、原生動物、付着性小型動物、昆虫その他底生動物、大型甲殻類、貝類、魚類、鳥類、バクテリア、生理生態、非生物環境調査(物理的側面、化学的側面、底質関係)、物質循環調査、水産業(養殖、漁業)
(6)成果物(公開)びわ湖生物資源調査団中間報告(1966)近畿地方建設局、琵琶湖生物資源調査団調査結果(1962-1965)、琵琶湖生物資源調査団業績集

2.国際生物学事業計画(IBP:International Biological Program)

(1)主催 UNESCO、文部省
(2)調査場所と期間 塩津湾、1965年~1974年
(3)目的 世界の人口爆発による食糧の確保の基礎を生物群集の生産力に求めた国際生物学事業計画です。
(4)琵琶湖調査代表者と主な参加者 三浦泰蔵(代表)、森主一、門田元、内田有恒、菅原庸、田中信彦、中西正己、根来健一郎、日下部有信、生嶋功、成田哲也、岡本州弘、鈴木紀雄、名越誠、森井ふじ、滋賀県水産試験場、岡本巌など
(5)調査の項目 バクテリアの現存量と有機物分解活性、植物プランクトン(光合成産物の細胞外排出物質の同定とバクテリアとの有機的連関、光合成による有機物生産速度の季節変動特性と年間生産量、太陽エネルギー利用効率)、動物プランクトンの季節変化特性、水草の有機物生産構造と生産力の測定、付着藻類の質的・量的調査、ビワマスの基礎および運動代謝量の測定から日餌量の推定、塩津湾(栄養塩濃度の鉛直的・季節的変動、水温の鉛直構造の季節変化と湖流調査)
(6)成果物(公開) Productivity of Communities in Japanese Inland Waters (1975) University of Tokyo Press、琵琶湖研究報告書等ほか多数

3.琵琶湖国際共同観測(BITEX:Biwako Transport Experiment)



(1)主催 滋賀県、科学技術庁
(2)調査場所と期間 琵琶湖北湖南湖盆および南湖、1993年8~9月集中
(3)目的 台風などの強風によって発生する内部波で引き起こされる物質の水平輸送に関わる1ヶ月間の集中観測を行いました。
(4)琵琶湖調査の代表者と主な参加者 熊谷道夫(代表)、Jorg Imberger(代表)、奥田節夫、中西正己、橋谷博、津田良平、坂本充、Warwick Vincent、Richard Robarts、Tom Berman、永田俊、占部城太郎、John Melack、Sally MacIntyre、遠藤修一、奥村康明、田中祐志、紀本岳志、Louis Legendre、David Farmer、Mark Trevorrow、渡辺泰徳、川幡佳一、平山彰彦、藤原建紀、横田喜一郎、東善広、板倉安正、中野伸一、大久保賢治、濮培民など参加総人数177人  
(5)調査の項目 物理(流動、波動、水温、河川)、化学(水質)、生物(プランクトン、バクテリア、一次生産)などを1日おきに30日間連続観測した。同時に、係留系による水温の連続観測、流動および波動に関する数値計算
(6)成果物(公開)
 Kumagai,M., J.Imberger and R.D.Robarts (1996) : Overview of BITEX'93 and data catalogue. Lake Biwa Study Monographs, Special Issue, 1-18.
Kumagai,M. and W.F.Vincent (Eds.) (2003): Freshwater Management –Global versus Local Perspectives -, Springer Tokyo, 230. ほか多数

4.地球圏・生物圏国際共同研究(IGBP:International Geosphere-Biosphere Programme)

(1)主催 文部科学省、国際科学会議(ICSU)
(2)調査場所と期間 琵琶湖和迩沖、1997年〜2001年
(3)目的 琵琶湖の沖帯の食物網構造を把握し、生物間相互作用が駆動する炭素、リン循環の様相を陸域起源有機物も含めて明らかにすることを目的としました。
(4)琵琶湖調査の代表者と主な参加者 中西正己(代表)、占部城太郎(代表)、Tek Bahadur Gurung、吉田丈人、鏡味麻衣子、由水千景、石川俊之、加 玲美、大久保賢治、中山英一郎、丸尾雅啓、紀本岳志、杉本敦子、村瀬 潤
(5)調査の項目 栄養塩、水温等、一般水質測定項目、細菌、藻類、原生動物、ワムシ・甲殻類プランクトン、一次生産速度、沈降フラックス(炭素、窒素、リン)、従属栄養生物の摂食、代謝速度等、底生生物(ヨコエビ類)、湖底堆積物のプランクトン遺骸・色素
(6)成果物(公開)
占部城太郎・吉岡崇仁(2006) 炭素代謝からみた湖沼生態系の機能 in 「地球環境と生態系:陸域生態系の科学(武田博清・占部城太郎編)」共立出版.(pp156-186)ほか多数
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チベット紀行-11

2013-03-22 12:46:37 | ButsuButsu
ラサに行ったことがありますか。

チベット自治区の首都で、人口約37万人。



1951年に中国に併合された。

7時40分 起床

西蔵山水賓館に宿泊していた。

9時15分 朝食

ここは標高3659mだ。

新しいドライバーの巴珠さんがやってきた。

チベット人だ。

9時45分 出発

11時55分 ポタラ宮の頂上に着いた。

標高3764m。



市街地より100mほど高いところにある。

この石垣の精巧な作りには感心する。

ほぼ垂直にそそり立っている。

1642年に建設とあるから、350年ほど前に、こんなに標高の高い場所にこのような壮大な建物が建てられたというのに驚く。

トイレがポットン便所になっており、糞便をしてから下に届くのにかなり時間がかかるという話である。

汲み取りは便利なように底部に位置しているのであろう。

下に降りると、広場に出た。



以前はもっとごみごみしていたらしいが、中国政府がチベット人を強制的に退去させたらしい。

犬もたくさんいたけれども中国人に食べられてしまったと通訳さんが言っていた。

14時00分 昼食



中華料理に飽きてきたので、夜にはぜひチベット料理を食べさせてほしいと注文した。

チベット人は魚を食べない。

午後はホテルに帰って、これまでの資料やデータの整理をした。
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3月21日(木)のつぶやき

2013-03-22 04:45:08 | 物語
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チベット紀行-10

2013-03-21 13:36:32 | ButsuButsu
5月9日

7時10分 起床。

8時10分 巴松錯(湖)着。標高3485m。

8時50分 準備完了。ゴムボートで調査に出発する。

CTDを2回おろす。



北緯30度0.618分、東経93度54.916分

巴松錯は、表面積が26.5平方キロメートル、貯水量24億トン、最大水深160m、平均水深90mの構造湖である。

チベットの湖沼を紹介した「西蔵河流与湖泊」にも記載されていない幻の湖である。

おそらく中国で3番目に深い湖でもある。

周辺の聞き取り調査も行ったが、非常によく環境が保全されている。

8世紀ころからチベット仏教(ラマ教)の巡礼地としても知られていたようである。

CTDの調査によると以下のような鉛直分布が得られた。



興味深いのが、水深20-50mにクロロフィルa濃度が高い層があり、ここでは溶存酸素濃度も高い。

光合成も行われている可能性がある。

おそらくピコプランクトンの種類ではないかと思う。

9時18分 調査終了。

10時00分 ラサ(拉薩)に向かって出発。

12時00分 昼食。ヒマワリの種を買って食する。

魚を食べた。山女魚の種類か?



ここのトイレは近寄ることもできないくらいひどかった。勘弁してほしい。

13時15分 出発。

13時55分 休憩。標高3433m。

15時55分 休憩。標高4288m。

17時15分 峠に到着。標高5035m。



やっとラサに着いた。標高3659m。

大都会だ。
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