人類は古来より、自然の恵みを得て生きていました。そして、しばしば猛威を振るう自然災害を恐れるとともに、自然を崇めていました。
人類の共通認識として、自然に生かされているのだという感覚が、あったのだと思います。
ところが、現在の我々はどうでしょうか?
ここ数年、頻発している豪雨などの被害を、目の当たりにし、自然の恐ろしさを感じる機会は少なくありません。
しかし、現在の我々に、自然を畏怖し、恐れるという感覚が残っているのでしょうか?
思うに、科学技術の進歩により、人類は思い上がり、そういった感覚を忘れたばかりか、自然を支配しているような錯覚に陥ってしまったのでしょう。
先日、東京地方裁判所で、福島第一原発事故について安全対策を怠った罪に問われた東京電力の元経営陣を無罪とする判決が言い渡されたそうです。
皆さまは、その報道を受け、どんなことを感じられたでしょうか?
私は、三つの違和感を覚えました。
一つ目は、責任有無の争点が、大規模地震や津波が予測できたかどうか(たぶん発生した津波が予測の範囲内だったかどうか)というところにあることです。
先ほど申し上げたことに関連しますが、人類を含めた地球上の生物は自然に生かされていると、私は考えています。そしてそれは、人類は自然を支配することはできないことを意味しています。これは私見ですが、皆さまにもご理解頂けると思います。
ですから、人間が自然災害の規模を想定しそれ以上の災害が起こらないと決めつけることはあってはなりません。(もちろん、自然災害の規模を想定することは必要でしょうし、それを否定しているのではありません。)
そもそも、人間の想定以上のことが起こりうることを前提としなければいけないのです。
それなのに、大規模地震や津波が予測できたら有罪、できなかったら無罪というのは、争点自体が、自然の脅威を無視した人間の傲りによる発想によってしか成り立たないと感じてしまいます。
二つ目の違和感は、人間が作った設備があれだけの被害をもたらしたというのに、その責任を取る人間がいないということです。
想定以上の津波による被害だから、悪いのは自然災害であって、事業者やその経営陣が悪いのでは無いと云っているように感じます。
もっとも、個人が責任を取れるような、事故ではありませんが。
そして三つ目の違和感。
判決どおり旧経営陣が罪に問われないのなら、何ら落ち度の無い経営をしていても、予見できない自然災害が発生した場合、原発は大惨事を引き起こすということが明らかになったと言えます。そんな危険なものなのに、日本政府は、原発を廃止しようとしません。
予見できない自然災害が原因の事故が発生しても、だれも責任が取れないというのなら、日本は、(事故があった場合深刻な被害が発生する)発電所(原発)の稼働を一切認めない政策に改めるべきだと思います。
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