私も父方の祖母が拝み屋さんだったし、
私自身も占いとか好きなので
スピリチュアルなものが好きな方だけど、
だけどあまりのめり込んで現実から
逸脱するのは良くないなって思っているsachiakiです。
頭が痛いのは悪い気を吸ったとかそういうんじゃなくて
寝てないなどで免疫力の落ちてる時に
人の多いところに出て普段なら拾わない
微量のウイルスに患ったからなのか
人熱で疲れたからなのかは不明だけど
まぁそういう因果があるもんで、
それを「悪い気」と
言い換えても良いのかもしれないけれど
だからといって、
「本来疲れているからじゃぁ休みましょう」を
こまかく伝える時に
”寝るために必要なことはお部屋を適度に暗くすること、
食事をちゃんととってから二時間は経っていること、
興奮しちゃうものからは離れておくこと、
お風呂には一時間前には入っておくこと"
みたいなことを指導するんじゃなくて、
「あなたの悪い気はこのお守りが吸ってくれます。
今なら10,000円でお譲りします!」に
なったらおかしいやろって言いたいんですよ。
「悪い気」であれ「ウイルス」であれ
必要なことは" "のようなことのはずなのにね。
とはいえ人が弱っている時ってのは
その細かい" "に気が回らないというか
できないからこそ即効性の高いものに
思わず頼ってしまうものなんじゃないかなって思います。
もしくは現実的なものを受け入れるのが
とても辛いので分かっているけれど分かりたくない
って感じでスピリチュアルなものの
曖昧さに依存したくなるのかもしれません。
というわけで、今日は恩師の大病について
うわーって慌ててしまい
思わず家の近くにあるという
大変ご利益の高いというお人形を買うかどうか
かなり迷ってしまいました。()
で、ふと思ったんですけれど。
上記のお人形を手に入れるのは
かなり運の要素が高いらしく、
そのレア感がより人気を高めているのだろうなと考えてから
そういや誰かの困難を払い除けたいって思う時
昔は御百度参りをしたり、
今は問題になることが多いけれど
千羽鶴を折ったり、千人針をしたためたりっていうのは
その苦難を一緒に背負うことで念のようなものが
入るからだってことになっているけれど、
たぶん「念」と呼ばれているものを
具体的にいうのなら、
その時に体験した「苦労(”する”という行為」が相手にとって
共通の苦難というものに近いものを作って共感をうみ、
大切にされていることを実感することから
「力になる」って思えるんじゃないかなって考えてみました。
なにをどう受け取るかは人次第ですが
今千羽鶴や御百度参りに「念」とか「気持ち」を
感じられなくなっているのは
その苦労が苦労という共通概念を超えてしまい
ただの迷惑、押し付けになってしまったからに他なりませんよね。
本来役に立たないものでも
そこに込めらるものというものを受け取れなくなっているのは
きっと世界の体験が貧弱になっているからなのではないでしょうか。
ただ迷惑と切り捨てるのは簡単だし、
実際現場で役に立たないことはその通りですし
色々と現代の物差しとは合わないことには違いないのですが
人に宿っていた「気持ち」という曖昧なものが
どんどん希薄化していることに少しだけ戸惑いと、
それがなくなってしまったら動物や機械と変わらないのではないか?
なんて疑問が浮かぶばかりです。
と、なんとも締まりが悪くなってきましたが
お薬と同じく、スピリチュアルなものに惹かれるのも
それはそれで「人間だもの」だけれども
適用、適量はお守りくださいってことだね。
ってことです。
それではまた!モイモイ。