というのは、人間が形に依存してしまう生き物だからかもしれない。
今日は無教会主義という
内村鑑三が提唱した日本独特のキリスト教信仰のあり方を調べに
寄贈してもらった講堂が移転して残っているという
自由が丘(どちらというと都立大駅)にある
今井館という資料館へお出かけしていたsachiakiです。
ぶっちゃけめちゃくちゃ良いところでしたわー。
キリスト教ってまったく分からんし、
なんか美術とかに関連あってすごいなーってくらいしか
思ってなかったんだけど、
日本人は無宗教だとは言われていても
背景には儒教と神道と仏教が絡まり合っているので
外部の宗教を受け付けるものなのかな?
なんて思っていたんだけどさー……。
こんなに真剣に人の道というものを考えて
さらに世の中を少しでもよくしようと考えようとすると
キリスト教という共通言語は便利なんだなぁ
なんて、そんなことを思ってしまうくらいには
関心してしまいました。
無教会主義というのは、プロテスタントの系統だそうだけど、
そもそもプロテスタントがいまいちわかっていない私は
その辺を割愛するとして、
教会や偶像を持つからこそ
中身を伝えようとする前に
その偶像や物を大切にして教えを守らないことを嘆き
ものに頼らないとする姿勢は
頭からっぽな私でも理解できるし、
めちゃくちゃ良いことだな!って感心してしまいました。
例えば同じアイドルを追っかけている時に
アイドルの衣装とかでケンケンと同じ追っかけ同士が喧嘩になったり、
アイドルのグッズを買うために非人道的なゲットの仕方を得たり、
そういうことって枚挙にいとまがないと思うんですけれど、
こと宗教になると
それこそ戦争の引き金にもなってしまったりするので
物が現存していることの危険ってかなり大きいと思うんですね。
それこそ、どこどこ教会には聖骸布があるから偉いとかね、
そういうことが起こってしまう。
そんなもんで偉いとかの優劣になるはずがないのに……。
ちょうどちょっと前にニーチェのツァラトゥストラを読み進めていて
そこで形だけの信仰など意味がないと一刀両断するのを読んでいたのもあるし、
この今井館の図書コーナーにて見つけた書庫の中にも
キルケゴールの書物が寄贈されていて(もちろん翻訳されたもの)、
その中でもキリストの信仰は形では意味がないと切り捨てていて
形あることの危険性と、誤りやすさを考えてしまったのでした。
それにしてもキルケゴール全集とか、
とにかくこんな数のキルケゴールの著書を見たことがなく
すげぇ!!って思わず目をキラキラさせてしまいましたよ。
大きめの本屋に行っても、せいぜい「死にいたる病」と
「不安の概念」ってくらいしか本人の著書はなく
「キルケゴールの実存解釈」とか「実存哲学のあゆみ」という
解釈本がいくつかあるくらいなのに
著書があんなに並んでいるなんて……。
思わず通いたくなるじゃないか……。
けれど、形がないと人が集まらないのも事実だったりするし
人は目に見えないものよりも
目にして触れてわかる物の方が実感を持つものなのよね。
なんて、ちょっとわかった風なことを書いてみたりして。
とにもかくにも、形ではなく中身にこだわった内村鑑三の無教会主義の資料館、
かなり肉筆のものや、内村鑑三が講演した話を一言も漏らすまいと記述したレポートや
詳細過ぎる資料図絵なども見ることができ、
閉館時間までミッチリと楽しませてもらいました。
館長さんもここまで資料に食いつく教会員以外の素人は珍しいみたいで
とにかく好待遇で対応してくれたのが良かったです。
普通はもっとアッサリとした反応をされるらしいですよw
そんなわけで今日も色んなこを考えることができてハッピッピ。
明日からは6月ということで、
いよいよ自分の誕生日がくるなぁなんて考えているところです。
40歳に成った時も、うわぁきたな大台。
なんてことを思ったけれど、41歳とかってなると
さすがに大人として色々考えちゃうね、
なんて思ってないけどね。
とりあえず勉強も続けるし、色々とやりたいこともやる。
いいヤツにならないとね!
てことで、今日はこれにて!モイ!
今日は無教会主義という
内村鑑三が提唱した日本独特のキリスト教信仰のあり方を調べに
寄贈してもらった講堂が移転して残っているという
自由が丘(どちらというと都立大駅)にある
今井館という資料館へお出かけしていたsachiakiです。
ぶっちゃけめちゃくちゃ良いところでしたわー。
キリスト教ってまったく分からんし、
なんか美術とかに関連あってすごいなーってくらいしか
思ってなかったんだけど、
日本人は無宗教だとは言われていても
背景には儒教と神道と仏教が絡まり合っているので
外部の宗教を受け付けるものなのかな?
なんて思っていたんだけどさー……。
こんなに真剣に人の道というものを考えて
さらに世の中を少しでもよくしようと考えようとすると
キリスト教という共通言語は便利なんだなぁ
なんて、そんなことを思ってしまうくらいには
関心してしまいました。
無教会主義というのは、プロテスタントの系統だそうだけど、
そもそもプロテスタントがいまいちわかっていない私は
その辺を割愛するとして、
教会や偶像を持つからこそ
中身を伝えようとする前に
その偶像や物を大切にして教えを守らないことを嘆き
ものに頼らないとする姿勢は
頭からっぽな私でも理解できるし、
めちゃくちゃ良いことだな!って感心してしまいました。
例えば同じアイドルを追っかけている時に
アイドルの衣装とかでケンケンと同じ追っかけ同士が喧嘩になったり、
アイドルのグッズを買うために非人道的なゲットの仕方を得たり、
そういうことって枚挙にいとまがないと思うんですけれど、
こと宗教になると
それこそ戦争の引き金にもなってしまったりするので
物が現存していることの危険ってかなり大きいと思うんですね。
それこそ、どこどこ教会には聖骸布があるから偉いとかね、
そういうことが起こってしまう。
そんなもんで偉いとかの優劣になるはずがないのに……。
ちょうどちょっと前にニーチェのツァラトゥストラを読み進めていて
そこで形だけの信仰など意味がないと一刀両断するのを読んでいたのもあるし、
この今井館の図書コーナーにて見つけた書庫の中にも
キルケゴールの書物が寄贈されていて(もちろん翻訳されたもの)、
その中でもキリストの信仰は形では意味がないと切り捨てていて
形あることの危険性と、誤りやすさを考えてしまったのでした。
それにしてもキルケゴール全集とか、
とにかくこんな数のキルケゴールの著書を見たことがなく
すげぇ!!って思わず目をキラキラさせてしまいましたよ。
大きめの本屋に行っても、せいぜい「死にいたる病」と
「不安の概念」ってくらいしか本人の著書はなく
「キルケゴールの実存解釈」とか「実存哲学のあゆみ」という
解釈本がいくつかあるくらいなのに
著書があんなに並んでいるなんて……。
思わず通いたくなるじゃないか……。
けれど、形がないと人が集まらないのも事実だったりするし
人は目に見えないものよりも
目にして触れてわかる物の方が実感を持つものなのよね。
なんて、ちょっとわかった風なことを書いてみたりして。
とにもかくにも、形ではなく中身にこだわった内村鑑三の無教会主義の資料館、
かなり肉筆のものや、内村鑑三が講演した話を一言も漏らすまいと記述したレポートや
詳細過ぎる資料図絵なども見ることができ、
閉館時間までミッチリと楽しませてもらいました。
館長さんもここまで資料に食いつく教会員以外の素人は珍しいみたいで
とにかく好待遇で対応してくれたのが良かったです。
普通はもっとアッサリとした反応をされるらしいですよw
そんなわけで今日も色んなこを考えることができてハッピッピ。
明日からは6月ということで、
いよいよ自分の誕生日がくるなぁなんて考えているところです。
40歳に成った時も、うわぁきたな大台。
なんてことを思ったけれど、41歳とかってなると
さすがに大人として色々考えちゃうね、
なんて思ってないけどね。
とりあえず勉強も続けるし、色々とやりたいこともやる。
いいヤツにならないとね!
てことで、今日はこれにて!モイ!