昨晩上がってきたニュースに
一般的な市街地にある公園でも「カエンタケ」が見つかるようになり、
触れただけでもヤバいものだから気をつけてね!
っていうものがあったので、
それはヤベェじゃん!ってFBにも投稿したんだけど、
肝心の子持ち世代や、公園などに遊びに行って
無邪気に写真を撮りそうな人たちには響かなかったみたいで
なんとも侘しい結果にそんなもんか……となってきたsachiakiです。
「カエンタケ」の話は街路樹の森林伐採なんかの話にもつながり
そこそこ関心度の高いものだと思ったんですけれど、
今大幅に伐採をしないとヤベェのよ!?って話は
外観維持のために「代々木公園の樹を切らないで!」みたいな
署名に人が集まっているのと同様に
知りたくもない事実だったのかもしれないです。
こういう時頭をよぎる言葉は「予想どうり不合理」であり、
リスクヘッジ(リスクを予測して、リスクに対応できるよう備える)や
リスクテイキング(自分の意思でリスクを負った行動をとること)というような
リスクマネージエントは難しい思考方法なのかもしれないな
なんてことを思ったりです。
新型コロナ感染症に関してもそうだし、
その他の人間の生活全般に関することだけど、
「不都合な真実」のようなことはそこここであることなのだろうな
なんて思いながらやるせない気持ちで
坂口安吾の「中庸」を読み始めました。
文学界の無頼派と呼ばれる彼の名著として「堕落論」もあるけれど
私はこの人の自分の頭で考えるというスタイルがすごく好きです。
「逃げたい心」なんぞではあけすけに逃避して
それでもどうにもならないことを空虚に描いているし
「西荻随筆」など読むとオッサンの青春って感じで
ニヤニヤしてしまう。
私も友達の家にピザ30人前とかやってみたいわw(やんないけど
そんな安吾を心に置いておくと
不思議と村的な考え方からスッと離れることができて
なんもあてにならんのならやっていくしかないのだな
なんて肝が座るところもあるんですわね。
昨晩、稀代のジャズミュージシャンこと菊地成孔が
今回の新型コロナに罹患したルポを上げられていまして、
そこにも無頼派の匂いがした話が載っており、
こういった時代を、優雅に、ときに七転八倒して生きていくには
自分の頭でしっかりと物事を吟味し
次の一手を打っていくしかないのやな
なんてことを思わされるのでした。
人からの指示や噂話を鵜呑みにするのではなく
「はーん、その論拠はなんぞや?」みたいな嗅覚は
別にロジカルなものでなくても良くて
「いつもこのパターンに陥る時はヤバイ」という経験則でもいいし、
「なんか嫌な予感がする」というような直感でも良いと思います。
それぞれの持っているカンピュータみたいなものを
フルにブン回してうまくやっていきましょう。
それにしても明治初期の島村藤村の「破戒」を読んでも
昭和初期〜中期の「中庸」を読んでも思うのは
人間ってやつは革新的な話というか、
常識を疑うような人をとても嫌がるってものなのだな
って感じです。
私も空気をかき乱す人はそれほど好きじゃないけれど
当然の疑問であるものが今まで議論もされていなかったような
固定されたものを打開してくれるような人は
やはり必要だし、そういった人を邪険にして痛い目にあうのは
結局のところ自分たちに他ならないよねって思うのです。
というわけでどうせ響かないボリュームゾーンになにを言っても意味ないな
なんて閉じてしまうのが私の悪い癖なのですが
虐待問題に取り組んでいる友人を見ていると
そう腐ってる場合でもないやな
なんて思ったりもするので
もっと言葉を尽くして訴えていこうと思います。
どうしたら届くのかしらね。
やっぱ情報というのは「誰が言ったか」が重宝されるから
そういったゾーンに人気のある人とトークする配信なんですかね。
まぁ色々と考えてみようと思います。
そんじゃまた!モイモイ。
一般的な市街地にある公園でも「カエンタケ」が見つかるようになり、
触れただけでもヤバいものだから気をつけてね!
っていうものがあったので、
それはヤベェじゃん!ってFBにも投稿したんだけど、
肝心の子持ち世代や、公園などに遊びに行って
無邪気に写真を撮りそうな人たちには響かなかったみたいで
なんとも侘しい結果にそんなもんか……となってきたsachiakiです。
「カエンタケ」の話は街路樹の森林伐採なんかの話にもつながり
そこそこ関心度の高いものだと思ったんですけれど、
今大幅に伐採をしないとヤベェのよ!?って話は
外観維持のために「代々木公園の樹を切らないで!」みたいな
署名に人が集まっているのと同様に
知りたくもない事実だったのかもしれないです。
こういう時頭をよぎる言葉は「予想どうり不合理」であり、
リスクヘッジ(リスクを予測して、リスクに対応できるよう備える)や
リスクテイキング(自分の意思でリスクを負った行動をとること)というような
リスクマネージエントは難しい思考方法なのかもしれないな
なんてことを思ったりです。
新型コロナ感染症に関してもそうだし、
その他の人間の生活全般に関することだけど、
「不都合な真実」のようなことはそこここであることなのだろうな
なんて思いながらやるせない気持ちで
坂口安吾の「中庸」を読み始めました。
文学界の無頼派と呼ばれる彼の名著として「堕落論」もあるけれど
私はこの人の自分の頭で考えるというスタイルがすごく好きです。
「逃げたい心」なんぞではあけすけに逃避して
それでもどうにもならないことを空虚に描いているし
「西荻随筆」など読むとオッサンの青春って感じで
ニヤニヤしてしまう。
私も友達の家にピザ30人前とかやってみたいわw(やんないけど
そんな安吾を心に置いておくと
不思議と村的な考え方からスッと離れることができて
なんもあてにならんのならやっていくしかないのだな
なんて肝が座るところもあるんですわね。
昨晩、稀代のジャズミュージシャンこと菊地成孔が
今回の新型コロナに罹患したルポを上げられていまして、
そこにも無頼派の匂いがした話が載っており、
こういった時代を、優雅に、ときに七転八倒して生きていくには
自分の頭でしっかりと物事を吟味し
次の一手を打っていくしかないのやな
なんてことを思わされるのでした。
人からの指示や噂話を鵜呑みにするのではなく
「はーん、その論拠はなんぞや?」みたいな嗅覚は
別にロジカルなものでなくても良くて
「いつもこのパターンに陥る時はヤバイ」という経験則でもいいし、
「なんか嫌な予感がする」というような直感でも良いと思います。
それぞれの持っているカンピュータみたいなものを
フルにブン回してうまくやっていきましょう。
それにしても明治初期の島村藤村の「破戒」を読んでも
昭和初期〜中期の「中庸」を読んでも思うのは
人間ってやつは革新的な話というか、
常識を疑うような人をとても嫌がるってものなのだな
って感じです。
私も空気をかき乱す人はそれほど好きじゃないけれど
当然の疑問であるものが今まで議論もされていなかったような
固定されたものを打開してくれるような人は
やはり必要だし、そういった人を邪険にして痛い目にあうのは
結局のところ自分たちに他ならないよねって思うのです。
というわけでどうせ響かないボリュームゾーンになにを言っても意味ないな
なんて閉じてしまうのが私の悪い癖なのですが
虐待問題に取り組んでいる友人を見ていると
そう腐ってる場合でもないやな
なんて思ったりもするので
もっと言葉を尽くして訴えていこうと思います。
どうしたら届くのかしらね。
やっぱ情報というのは「誰が言ったか」が重宝されるから
そういったゾーンに人気のある人とトークする配信なんですかね。
まぁ色々と考えてみようと思います。
そんじゃまた!モイモイ。