最近はジェンダーの話の流れからも
”男だって女々しくて良い”みたいな流れになり
パターナリズム良くない!ということで
より個人の力を尊重することになっていますが
社会福祉などの観念や本当にそれで良いのか?
とたまに立ち止まって考えてしまうsachiakiです。
もちろんパターナリズムの良くない方面の
弱い側に対して”良かれと思って行動や言動に介入する”
ことはあまり誉められたものではないんだけれど
それでも世の中が”ありのまま”で生きていけるほど
単純なものではないことも確かで
時に叱り、時に励まし、弱い立場の人が
独り立ちできるように存在することまで
否定して良いのだろうか?って思うんですよね。
それは私が「なんだこの野郎!私だってできらぁ!」
という反骨精神を持ち合わせていたから、
なんていう資質があるから言えることなのかもですが。
守られてばかりではダメになる。
個人がうまくいかないことも含めて
そのありのままを受け止める社会に
といってあまりにも無邪気な行動を
そのままにしても良いのだろうか?
悩むところです。
ハンディなどは結局のところ
その環境ごとには強弱が入れ替わるのも確かで
例えばコロナ禍では家の中で静かにしていろ
というものが推奨され、
一人上手の引きこもりはとくに変わりなく
普段は社交的で社会的に望ましい人たちが
人と交流を禁じられて弱っていったことも
その強弱のひっくり返る例の一つだと思います。
他にも子供の発想力の方が優れていたり、
お年を召した方達の経験が身を助けてくれることなどもあります。
足がうまく動かせない人などの身障者だって
そういったものに慣れているからこそ
いざという時に動けない場所以外の使い方に優れていて
一点突破することだってあります。
だからそういった人たちを
「弱い人」と決めつけて配慮するのは
なにか違うんじゃいか?という話も聞いたりします。
私からしてみたら、
その人たちを「弱い人」とするのではなく
その人たちが「一般的な動き」と足並みが揃わないことに
理解を示して、その人たちが困らないように
一個人として扱うフォローが必要なんじゃないか?
ってことなんですけれど、
それが上から目線と思われたり
他の弱さを抱えた人から特別扱いしているような
そんな受け取り方をされるのは
なんか違う気がするなぁって思うだけなのです。
そんなわけで、そのフェアさを求める際の
個人にある程度のものを求めるのは
父性とも通じると思うので
近頃の父親的な存在の否定というか
「男らしさの否定」にはなんかモニョるなぁ
と思っているところです。
まぁそんな硬派なものは時代遅れだし、
これからの時代は母性の時代ですよ?
と言われたらそれはそれなんでしょうけどねぇ……。
母性の時代、全てを優しく包み込む
人類全員赤ちゃんで安心安全の世界へ。
そういった方へ進むのでしょうか。
それもまた良しなのかな。
おぎゃってヨシヨシされる優しい世界へ。
そうなったら私もバブりますよ!バブー!
知能指数が2ぐらいになったので
逃げるように日記を終わろうと思います。
そんじゃまた。モイモイ。