あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

力とはなにか

2020-05-31 | from:sachiaki
昨日からずっと「力」について考えているところ。
なぜって、2016年に放映されたベルセルクのアニメ版を今頃になって見たのと、
昨晩18時半からぶっ通しで見ていた配信一人芝居のおかげです。

そうでなくとも毎日毎日懲りずにいろんなことを考えているのだけど、
まったく厄介な脳の構造をしているなぁ
なんてため息混じりのsachiakiです。

話は戻って「力」について。

「力」を辞書で引くと
1.外に現れる働きのもと(として考えるもの)。
2.ものを動かす作用。

となっていました。

「力」とは置き換えて「武器」と言い換えることもありますね。

同じく「武器」を辞書で引いてみると
1.戦いに用いる種々の道具や器具。
 刀や銃などの、敵を攻撃したり自分を守ったりするための兵器や武具。
2.何かをするための有力な手段となるもの。

昨晩見ていたベルセルクで
「強いというだけで誰かを傷つけてしまう
弱いというだけで誰かを憎んでしまう」

というニーナのセリフで大変考えこんでしまったものですが、
ここに昨晩見ていたお芝居の中で
「お前は武器を取るな。武器というのは何も刀や銃だけではないぞ。
 言葉でも芝居でも音楽でも人を傷つける力となる。
 シンプルであるほど殺傷能力は高い」
ともあり、人はなにか人より抜きん出るものを扱う時に
それを力として行使するということを暗に示しているわけです。

ただ美しいというだけでも、ただ勉強ができるというだけでも
それができない人にとっては眩しく傷つけてしまうものです。

お芝居の方は「なにかを選択する時に人を傷つけることを選べるかどうか」というような話しだと
私は解釈しましたが、もちろん「傷つけていいわけじゃない」がセットでもあり、
なにを表現し、なにを持つのかを考える、そういったことを忘れてはいけない
そういう風に受け取りました。

私は瀧本哲史さんの「僕は君たちに武器を配りたい」を読んだ時も
「武器とはなにか」をいっぱい考えたものですが
結局コモディティ化されているつまらないものを持っているだけの
平凡な人間ではなにもできやしない、
だからそういった人間は黙っていよう、謙虚でいよう。
なんてことを思ったりしていました。
つまり武器を放棄するということです。

持たざる者にもそれなりの矜持があるってもんで
せめて持っている人の足かせにはならないよう、
人を陥れてまでなにかをしようなんてことを思わないようにいよう。
できるだけ肥やしとして役に立てるぐらいの栄養を持っておこう。
そんなことを思ったりしたのですけれど……。

昨日今日と…いやもうちょっと前からかな。
ここのところ「力」というものを考えているからか、
例え何も持っていなくても、持っていないことさえも「力」となる。

そうなるともう「力」を行使しないというのは
自分の存在を諦めることと同意であり、
それはつまるところ「死ね」と言われていることと変わりなく、
ならばせめて良い使い方を選びたいと思ったりしたのでした。

そのためにも自分の「力・武器」がなんであるのか
それを知りたいものなのですけどね……いやはや難しい。
強いていうなら、多少しゃべることができるってことだけど、
それも微妙なんだよなぁ。

キャリアアップセミナーとはでは自分の強みを知るための
様々なチェックリストなどがあるそうですけどね…
うーんでもやっぱり「自分の武器」がなんであるかよりも
行使する理由の方が大事だよね。
理由がわかっていれば、それに合わせた武器を選ぶことができるもんね。

なんてことを考えて今日も夜が更けていくわけです。

目下の私の目標はDQウォークのレベルを55にして
今やっている章のボス戦をクリアしたいってぐらいなので
しばらくは腑抜けた人生が続いていきそうです。
やれやれですね。

昨晩なんか、なんて無駄な10年を過ごしてしまったのだろう!!
って謎の落ち込みもしていたのに
どうしようもないぐらい平々凡々ですわ。

まぁうまく生き延びていきましょう。
明日も息災でありますように。モイモイ
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武器について考えている

2020-05-30 | from:sachiaki
今日はちょっとした知り合いがライブ配信にて一人芝居をされるというので
18時30分から21時までの配信を見ているsachiakiです。

現在21時を余裕で過ぎているところで
この人がお芝居をすると時間が跳躍していくことは
何度か観劇したことがある人なら知っているものなんですが
久しぶりに観劇するのですっかり忘れておりました。

この人はお芝居を始めたら気が済むまで続けるというスタイルの方なので
以前は自宅にステージを設けて、
12時間のお芝居についてメールをくださる仕組みになっていました。
メールをもらったら行けるか行けないかを返信して
都合の良い時間に訪れて木戸銭(観劇料)を払い、
見たい演目をリクエストするというもの。

私は「事象の地平線」という、物事は起こしてしまうと、その前には戻れない。
そしてそれはもう別の世界に行ってしまうものである、
そういう話で大変お気に入りのお芝居だったりします。

そして今日2時間越えしている一人芝居のライブにて
また一つお気に入りが出来ました。
「月離宮」というお芝居です。

あらすじを書こうと思ったけれど、あまりに大作なので難しかったわ……。
いつか機会があったらお芝居を見に行ってみてくださいね。

一つ言えるのは、「武器を取ってはいけない」というセリフがたまらなく響いたことです。
武器とはなにも言葉通りの武器ではなく、言葉などもそうだといい、
人を傷つける武器を取るな、ということです。

どうやら今回は無観客ライブということでラストが変わってしまったようですが
それでも武器を取る、取らないということについて
たくさんのことを考えるきっかけとなりました。

今日はねぇ、このお芝居を見る前は2016年にアニメ化された
ベルセルクを見ていて、これも散々頭を使って見ていたので
書きたいこと、思ったことがあったのですけれど
まだうまく脳内で言葉になっていないのでこの辺にて。モイモイ

(唐突)
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うちは23区じゃなかったんやw

2020-05-29 | from:sachiaki
都内(23区)でブルーインパルスが見えたそうですね。
うちは杉並区でも武蔵野市に近いところなので
見えなかったのだと思います。

思います、ってなっているのは
私が昨日も夜更かしをしていたので
朝起きてるはずもなく、起きてFacebookのタイムラインを見てみたら
都内23区の中でも東エリアにお住いの方や
仕事でおでかけされている方たちが
こぞってお写真を上げていたので、
なるほどね〜ってなっていたsachiakiです。

ブルーインパルスは見られなかったけれど
お天気もよかったので気分は上場。
なので久しぶりの食材買い出しにお出かけをしてまして
片道2.5kmの道をえっちらおっちら歩いて
お米やら料理酒やらお肉やらを運びこみましたよ。
合計8kgぐらいの食材かな。
もちろん大方のモノを持ってくれたのは
パンダ氏なんですけどね〜。

私は野菜だけ背負ったのでせいぜい1kgくらいかな。

23区のはずれに住んでいるけれど
食費は安くないんですよね〜。
練馬区に住んでいた頃はお野菜安かったのになぁ。
あんまり変わらないところにいるのになぜなのだw

まぁ妙に昔からの金持ちが多いエリアに住んでいるせいか、
土地代が高いからなんじゃないかという予想ですけれど、
もともとお百姓さんで土地を売っただけの人たちなのにな〜。
う〜ん、とか言ってみたりします。
私の同級生にも地主の子が何人かいたもんなぁ。
私自身は団地育ちなので、そういった子がいると
なんか知らんけれど家がでかい人の子ってイメージだったかな。
あとで聞いた話しでは、
「敷地内にある林で自殺する人とかいるから土地とか持ってても超迷惑」
とかいうめちゃくちゃ斜め上の答えで
人それぞれに大変なんだな〜なんて思ったこともあるし、
そうか、あの林はお前んちのものだったのかって思った覚えもあり、
なんだか複雑でした。

そんな23区内の人の話。
見られた人も、そうでなかった人も、
そもそも東京関係ないって人も
引き続き気を引き締めながら、Enjoy your life timeでいきませう。

あ、特別給付金が無事に入金されてて
私的に少しホッコリしてました。
衣装とか買ってなにかに生かしていきたいと思いまする。

そんじゃーね。モイモイ
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エラソーなことを書き続けていたせいか

2020-05-28 | from:sachiaki
アクセス数がドンと落ち込んだよ!
けっこうシッカリと数字に出るもんなのだな、
なんて驚いているsachiakiです。

まぁエラソーなことを書き続けていたいわけでもないのですけどね……。
なにせここ最近の私ときたら、
今更になってLINEクリエイターズスタンプ作ってみるかぁと
重い腰を上げたばかりで、一日一個のイラストをちまちまと作っているぐらいの
まるでお金につなげることができないボンヤリ人間のままですからね。

持続化給付金の話しだって、
今回の新型感染症のせいで私の仕事が減ったわけじゃないから
申請するのはちょっと…なんて思っているところですが、
人に聞いてみたら、ともかくもらえるものは全部もらいたいから
とりあえず申請してみる、なんて話も聞いていますからね。

どんだけボンヤリしているんだって話です。

それはそれとして、こんなボンヤリしている私が
ここ一年近くハマり続けているスマフォアプリとして
ドラゴンクエストウォークが(通称DQウォーク)あるんですけれど、
外出自粛生活に合わせてお外のお散歩も控えていたので
まぁ久しぶりに歩いてみたら全然歩けなくなっているのね……。
めっちゃびっくりしたわー。
一日10kmぐらいが歩いたなぁ!って思えるところところだったのに
すっかり歩けなくなっていて帰宅してからグッタリしてました。

グッタリしたで思い出したけれど、
食事していると疲れる人っていないですか?
私は食事中に猛烈に疲れというか、座っているのもダルくなるので
食事をやめておやすみしたり、
食べたあとに動けなくなる(力が入らない)ってことがあるんだけど、
これを調べても摂食障害なんじゃないか?とか
そういったものばかり出てくるので、
ウ〜ンってなっています。

たしかにダイエットはしないと、って思ってはいるけれど、
今は体重とかを厳密に測ったりはしてないし、
時折メジャーでウエストを測るぐらいで
アイスぐらいは食べても良いってことにして
けっこう自分に甘やかしてますからなぁ。
運動はしないと、って思いながらスクワットだけはやっていたり。

なので、なんか食事中に疲れる人に対して
もっとなんかあると思うので、
引き続き調べてみようと思います。

去年の健康診断で腎臓の数値が微妙だったので、
腎臓がやばいってことなのかなぁ。

色々と悩む。

と、悩んでいるだけでも仕方がないので、
やるべきことをやってきます。
そんじゃまた!モイ
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よき友三つあり(徒然草)の元ネタは孔子様の言葉だったのか!?

2020-05-27 | from:sachiaki
水曜日の定番として、サロン夜学をお昼に開いているsachiakiです。

最近は実存しているお店としてだけでなく、
オンラインカフェ(概念)というものを開いているのですが、
実存しているお店がわちゃわちゃしてくると
私がオンライン上のお客様とお話しするのが難しくなってしまうので
音声ファイルを作成して、ラジオ的にお楽しみくださいって形にしてみました。

今日作ったファイルで2個目だったのですが、
喋るテーマを「友情」というものにしていたんです。
これには割と最近私が宮台真司先生の記事を読んで
人間関係というものをキチンと築かないと空虚な人間となってしまい、
ロクなことをせんなぁという気持ちを込めて、
論語(/角川ソフィア文庫)の中より、

 孔子曰く、益する者の三友あり。
 損なうものの三友あり。
 直なるを友とし、諒なるを友とし、多聞なるを友とするは、益するなり。
 便辟なるを友とし、善柔なるを友とし、便佞なるを友とするは、損なうなり。

〜孔子先生の教え。自分にとって有益な三種の友がいる。
 (逆に)有害となる三種の友がいる。
 まっすぐな友、義理固い友、博識の友、これは有益である。
 しかし、追従する友、裏表のある友、口先の巧みな友、これは有害である。

この話を取り上げてみました。

そして、この話をしている最中に、
そういや徒然草にも似たような話があったような…って思い出していたのですけれど、
昔の教養人って、必ず漢詩のことも知っていたそうなので
おそらくこの孔子の詩のこともご存知だったのだろうなぁとかなんとか。

ちなみに徒然草(第百十七段)の中では
 よき友三つあり。
 一つには、物くるる友。
 二つには医師(くすし)。
 三つには、知恵ある友。

とあり、よき友というのは「物をくれる友。医者。知恵者』となり、
物くれる物=金持ちと解釈して微笑ましく思っていたけれど、
与えてくれる人という拡大解釈をするなら、
なにかと機会をくれる人とかそういったものも含むのかな。
医者はいるとなにかと心強いものです。助かりますね。
そして最後にここでも知恵のある人をよい友達としているので、
いかに昔の人が知恵(情報や教養)を大切にしていたかが伺えるものです。
それは今もそうなんでしょうけどね。

徒然草の著者である兼好法師は
自分に欠けたものを持っている人を「知恵ある人」といったそうです。
これもまた含蓄あることよな…とため息が漏れてしまいます。
知恵を持っているだけでもなく、物知りなだけでなく、
自分が知っているものの他のことを知っている。
これはすごいことです。
私なんか小人・俗人なので、つい何もかも知っている気分になる時があるし、
自分よりもなにか足りなさそうな人を見かけた時に
自分の方が知っているような気になってしまうけれど、
例え生まれたばかりの子供でさえ
私の知らない世界を知っているわけですから
ものを知っていると一歩引いて受け止めなくてはなりません。

そんなこんなを話ししていましたが、
私の話の元ネタになった宮台真司先生の寄稿された記事はこちらにて掲載されています。
日刊スポーツに寄せられていたのか…と驚いてしまいましたけれど、ぜひご一読くださいな。
心が洗われる気持ちになりますよ。
社会学者の宮台真司さん 友達って何?/プロに聞く

てことで今日はこの辺にて。
そんじゃまた!モイモイ。
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動画作成するのは根気と楽しむパゥワーが必要だ

2020-05-26 | from:sachiaki
今日はAdobe Creative Cloudのオンライン授業を受けていたsachiakiです。

この一年で時折動画ソフトであるところのPremiereを触ることが増え、
もう少しできることを増やしてみたいなぁ〜なんて
気楽な気持ちでオンライン講座(100人までの講習)を受講してみたんですけれど、
蓋を開けてみたらPremiereじゃなくてAfterEffectsで
えぇええぇ!!!!!ってなってたんだけど、
この二つの違いも全然わかっていなかったので
受けてみて「こりゃすげぇ!」ってなってきたところです。

なにがすごいって、
できることが細かい!!!!!
とにかく動き一つ一つに対してできることが多い。
たった8秒の動画を作るのに、
文字が浮かんできたり、横にスクロールして消えたり
ってぐらいならPremiereでもできることなんだけど、
その浮かんでくる文字の浮かばせ方をアニメーションをつけて
一つ一つ浮かばせたり、消えるタイミングをグラフで指示できたり、
一つの映像にに対してレイヤーが何層にも重なり合って
より複雑な動きになっていくのを見ることができ、
こんなこともできるのか……と圧倒的なパワーを見せつけられてきました。

そしてこんだけ複雑なことをやろうとするんだから
そりゃマシンパワーは必要だし、私のマシンではほぼ不可能だな…と
新しいマシンの導入を本気で検討しなくちゃならないかも…ってなっていました。

んで、PremiereとAfterEffectsの最大の違いはなにかといえば
Premiereは大きい流れを編集するソフトで、
AfterEffectsはその大きい流れの中に挿入するための
細やかな動画パーツを作るためのものなんだなってこと。
(あくまでここ半年でちょこっと動画編集ソフトをいじるようになってきた、ど素人の意見ですけれど)

AfterEffectsではその細やかな動きを設定できるところが強みだけど、
それを長い尺の動画を作ろうとしたら、
レイヤーがいくつあっても足りないし、
たぶん作業する人間も、どの動きがレイヤーと連動しているのか
多分把握できなくなっていってしまうと思います。

なんていうか、IllustratorやPhotoshopでは
一枚の画像を作り上げていくのは得意だけど、
ページものを作ったりするのはInDesignで、っていう流れに似てるなと。

そしてできることが増えれば増えるだけ
ある労力の合理化はできるものの、労働の総数は増えていくので
相当なパワーがないと、そしてそれを楽しめる心がないと厳しいなって思ってきました。

なにせ8秒の動画を作るのに、
(講座上で人に教えるから時間がかかることを含めても)
1時間半かかりましたからね……。

私が以前4分の動画を作るのに半日かけたことがありましたが
動画は作るのにマシンパワーと物理時間がかかるから
とにかく時間がかかる!
そりゃ動画制作費が高くなっていくのも分かるわー…ってなりました。

例えば3分の動画を作るのにラフ的な作業が3時間で終わったとしても
チェックを通しでみるたびに3分×回数の時間がかかります。
当然時間が長くなれば長くなるほど、通しでみる時間はかかるし、
最終的にYoutubeなどにアップできる動画ファイルに書き出すにも
レンダリングで何十分〜何時間とかかります。

CMなど制作されているみなさんには頭が下がりますね……。

そんなですが、動きがついているものを作るのは単純に面白いですね。
刺激の要素が強いということなのでしょうけれど、
赤ちゃんや子供が単純な動きでも動いていることに興奮するのに近く、
「動く」というものを作り上げるのは
止まったものを作り上げるよりもドーパミン的な効果が大きいのかもなーってなりました。
写真加工している時も楽しいけれど、それはどちらかといえば静かな興奮で、
作り上げた時に「彫り上げた」っていう感慨に近いものがあります。
動画編集をしている時は、常にガンギマってる感じで
作り終えた時には「あぁ終わった…燃え尽きたわ…」って魂が抜けていく感じに近いです。

人それぞれだと思いますけどね。
私はそう感じます。

とにもかくにも自分ができそうなことが増えていくのも喜びですわね。
今日はいい勉強になりました。
なにげに今日の講座は通しの講座の5回目だったそうなので
ちゃんと初回から見直したいと思います。

一回の講座で1時間半。
全部見直してくると、7時間半かぁ。
まぁ一日一講座って感じで勉強しようっと。

では今日はこの辺にて!モイ!
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Twitterが荒んできたのでしばらく退避することにしました

2020-05-26 | from:sachiaki
Twitterが荒んでいるのは実はもっと前からだって話も聞いたりするし、
実際東日本大震災の後からのTwitterとその前のTwitterでは層が違うという話も聞くので
随分と前から荒み始めていたのだろうなと思います。

そしてそれがとてもシンドイsachiakiです。

なので誰かが誰かを揶揄したり、
少しでも粗があったり、今の道徳観と合わないってだけで
憎まれるようなツイートを散見するのに
ちょっと心理的についていけないなと思ったので
いったん離れることにしてみました。
今年に入っては初めてかな?
だいたい毎年一度は離れる時期があるので
そういう時期だってことで。

今は繋がる方法はいくらでもあるし、
こうやって自分の意見を書きたかったら日記にするという手段もあるし、
言葉として垂れ流すよりも作品を作ったりする方が
きっと良い時期というものがあって、
そうやってバランスを取っているのかもしれません。
情報ツールとしては東洋経済系列のメールがたくさん届くので
だいたいのことはそこで拾ってこれるし、
リアルタイムで必要なことはラジオでいいかなーと。

もちろん表明した方が良いことというものはあって、
それらはこちらで書いたり、
もしくはオンライン署名をしたりしていくつもりです。

ともかく怒りや悲しみの連鎖に巻き込まれて
自分の心のバランスまでどうかしてしまいそうって思ったので
ソッと離れることにしてみました。

まぁだからといってこの離れるという時間をどのぐらい取るかは
けっこう気分次第なので、早々に戻ってくる可能性もなくはないですw

本当は人は人、自分は自分って切り離して見ることができれば良いんですけどね〜。
どうにもうまくできないみたいなので、これが防壁ってことにしてみました。
(それで心理カウンセラーになることも諦めました。
 自分にはそういった壁をちゃんと作るのがうまくできないようなので)

私がタイムラインに現れなくても、
他の人でもツイートを見かけなくなることなんてよくあることですし、
「なんとなく見かけないなぁ」になって
また現れたら「久しぶり〜」ってぐらいになるんだと思います。

それはさておき。
4月に行った「赤鬼ちゃんの哲学地獄」特別編として
「赤鬼ちゃんとよしえの元気の出る配信」の時に
描き下ろしていたオリジナルTシャツを作って着ていたんです。
そのTシャツを他の方も欲しいという話をチラホラ聞いていたとはいえ、
全然注文できる状況が作れていなかったので
改めてSUZURIにデザインを登録してみました。
https://suzuri.jp/sachiak_ing

その時のオリジナルデザイン以外も置いてあります。
もし良かったらゲットしてやっておくんなまし。

うっかり自分のツイートで誰かが「こいつは炎上案件だ!」っていって
知らない間に祭りになっていて、
いつの間にかブログのコメントが荒れたりしたら凹むなぁ。

まぁ今は名誉毀損等で訴えることが比較的容易になっているそうなので、
もしそんなものが見つかったら粛々と弁護士さんに相談して
ひっそりと手続きをしていこうと思います。

私の古い記事とかその他もろもとを探れば
簡単に貶められることが出来ると思いますのでな……。
当然古い自分は世の中を知らないし、
雑味のある人間なのでとんでもない発言をしていると思います。

そんなこんなですけれど、
ダメ人間ながらも世界の片隅で生きていこうと思っていますよ。

てことで、2度目の日記更新でした。モイモイ
また明日(夜が明けたらね〜)!
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勉強してきたことを振り返る

2020-05-25 | from:sachiaki
もう今年もあと2週間も経てば半年を過ごしてきたことになりますね。
いや、一応6月が終わるまでは半年ではないのかな?
なんにしても年の半分近くが過ぎてしまったことには変わりなく
子供時代の長い長い時間の流れにいるわけではない
中年のおばさんになってしまった私からすると
半年なんてホントあっちゅー間ってものね。
なんて思ってしまうsachiakiです。

そんな私ですが、今年に入っていろいろあったなぁと振り返りつつ、
この心理的不安が増長している今必要なことは
学んできた心理学に多少なりともヒントがあるのではないかと
久しぶりに教科書を読み返しているところです。

どれもこれも役に立つなぁと思う項目ばかりでしたが、
今読み返して刺さった部分が

「自己知覚理論」だったので、そちらをご紹介。
これは、人が自分の心の状態を知るプロセスは
他者の心の状態を推測するプロセスと本質的に同じだとするもので、
他者の感情やパーソナリティを推測する際には
外部に出ている行動をもとに推測しており、
第三者を観察するように自分の行動を観察することで
自分の感情やパーソナリティを推測している、というものです。

自分というものを認知しようとするとき、
それは知らず知らず自分に甘く評価してしまっていたりして、
他者から見えている実像と激しくずれていることがあったりしますが
改めて自分の行動のみを観測して、
どういうパーソナリティなのかを考えてみれば
自己認識している像との認知の歪みを見ることができるというものです。

客観的に見るというのは難しいと思いますが、
例えばツイッターなどで自分の発信しているテキストを
第三者の気分で読んでみると、
攻撃的なツイートであるかどうかなど、
けっこう思いもよらないものが見えてくるものです。

そしてこの自己が描いている理想像と現実の像が離れている時でも
打ちひしがれている場合ではなく、
自分を変えることができるとティモシー・ウィルソンは言います。

例えば今までうまくいかず、ドロップアウトしたような生き方をしていても、
養護施設などで自信とは無関係なボランティア活動に参加したりすると
人から頼りにされること、援助できる力を持つことに気づき、
自己像が大きく変容することがあるそうです。
疎外感や自身を無力だと感じている十代は非行に走りやすいが
行動で内面が変わっていくことにより、
結果ドロップアウトから戻ってこられたり、
ドロップアウトせずに済むという事例があるということです。

大人になってからそうそう人は変わるものではない、
というのが通説ですが、
この理論を応用すれば、感じの良い人の真似をするだけでも
内面が変わっていき、結果的に真似をせずとも感じの良い人になれる可能性があります。

これは大昔からの慣用句の通り、
朱に交われば赤く染まる。
というものと同義のことかもしれませんね。

徒然草から言葉を借りれば

 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
 悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
 驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
 偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

キチガイのフリをして大通りを走ったならば、その人はキチガイである。
悪人の真似をして人を殺してしまったならば、その人は悪人である。
駿馬である驥*(キ)になりたいと願って、驥の真似をし、驥を学ぶものは驥の同類である。
偽りであっても優れた人を真似ようとする人を賢*というのだ。

*驥=優れた才能を持つ者の例え。一日に千里を走る駿馬という意味から。
*賢=徳の高い人。

己を振り返り、理想の自分に近づけているか、
行動を見ながら少しでも近づけるように歩んでいけると良いですね。

私も理想に近づくべく、筋トレ等励みたいと思います。
昨日もアイス食べたりして、食っちゃ寝しているので
自分に喝ですね。喝!喝!!

あぁ、自堕落とはなんと魅力なことなのでしょう……。
身近に張本さんでもおいて、走り込みが甘い!とか言われればいいんですかね。
自分に甘いアクシズ教の経典に前のめりになりつつ、

『自分を抑えて真面目に生きても頑張らないまま生きても明日は何が起こるか分らない。
なら、分らない明日の事より、確かな今を楽に行きなさい』

とうっかりしてしまいそうなので、今日はこの辺にて!モイモイ

sachiakiは「このすば」を全力推ししています。
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「悪の陳腐さ」について考えている

2020-05-24 | from:sachiaki
世の中は刺激的なものを求め続け、
1ヶ月も経てば糾弾する内容も変わっていきます。
どんだけ心を揺り動かされたかのように感じても
その刺激は恐ろしく短い期間しか働いてくれません。
自分自身が受けた傷の時は一生を左右するようなことでも
他人の傷に対してそこまで受けれ入れることがないのは
心の防壁として正しい動きとはいえ、
ゴシップを好み、刺激的な映画ばかりを好み、
刺激なしでは生きられないようになると
その人に慈悲の心があるのか疑問を浮かべてしまうsachiakiです。

そして昨日今日とちまたを騒がせている
誹謗中傷が原因(だと思われていること)で人が死んでしまっているところも
人々の心の劣化が疑問視されていますが、
私は劣化とかそういうものではなく、
そもそも「悪」というものは陳腐であって
ごくごく普通の感情であり、
ごくごく普通にやりかねないことの一つだというのに
誹謗中傷をした人たちを糾弾しているその人たち自身が
その「陳腐な悪」の一翼を担っていることに無自覚なことに唖然としてしまうわけです。

アイヒマン実験というものをご存知でしょうか。
これはかなりショックングな実験で、
今では実験をしたことそのものを非難されたりしていますが
これほど人間の攻撃性を、もしくは攻撃をするのを止められる理性のなさを
感じさせるものはないと思います。
そしてそれは特別攻撃的な人というわけでもなく、
これを書いている私でさえやりかねない、
あまりに平板な人間の心理であるゆえに
暴虐はこれからも繰り返されるという恐怖を感じるわけです。

アイヒマン実験については映画にもなっていますので、
興味がある方はぜひご覧ください。

アイヒマン実験、人はどこまで残酷になれるのか。/映画『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』予告編


哲学者ハンナ・アーレントはいいます。
「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」

この言葉を念頭におくと、自粛警察などという軽口が叩かれている
あの一連の間抜けな人たちの行動心理も見えてくると思います。
彼らにはシステムに対して「なぜこれをするのか」ということを考えることなく
ただただシステムを受け入れ、それに従わないものに対して
自分が感じている抑圧の解消とともに幼稚な手段に出ているに過ぎません。

いまだにYoutubeやTwitterなどでは数字を稼ぎたいからか、
もしくは一度振り上げた拳を下げる理由がなくなってしまったからか
死んだ人の口が開かないことをいいことに追加攻撃がとどまるところを知らない様子。

これも数字が伸びる→数字が伸びれば広告等の収入が上がる(認知度が上がる)
という成功報酬のシステムに絡め取られ、
そこから降りることができなくなってしまった哀れさを感じてしまいます。

人を傷つけたことによって、成功体験と同じところが刺激され
喜びと感じる人もいますが
大方の人々は自分が傷つけたと知れば自分も傷つくものです。
これが「叩いた方の手も痛い」というものです。
だからこそ、「叩いてごめんなさい」が必要だし、
それが加害者の心を結果的に慰めることになるのです。
被害を受けた人の心や体の傷は残念ながら巻き戻せませんが
加害者が内省し、次に踏みとどまることができれば
少しはマシな世の中になっていくのだと思います。

こんなことを書いている自分ができた人間でないことも分かっているし、
批判されるだけの粗もいっぱいあるれど、
少しでもマシな人間になれるように
これからも功徳を積んでいけるように、もがいていこうと思います。

と、ここまで書いてきたら力尽きてきました。
もっと資料となる本とかを読み漁り、
様々な事象をひろってみれば良いんですけどね。

とりあえず「悪」と呼ばれるものの多くは
悪人がなすものではなく
ごくごく一般的な、なんなら善良な人々が
なにも考えずに自分が受け取っているシステムやルールから逸脱する人を
ほんの少しものを言ってやろう、こらしめてやろう、注意してやろう、
そんな気持ちでやっている些細なことばかりである。
というようなことを書きたかっただけなので。

そんじゃまた明日。モイモイ
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大貧民みたいなパワーバランスの話

2020-05-23 | from:amo
日記でも何度か書いているけれど、
人の長所と短所は裏表っていうのに近い話。
とはいえ、今回は三すくみに近い話か……。

そんなことを考えていたsachiakiです。

先日Tweetをガッツリとしたので
中身がスッカスカになってしまって日記が書けない
なんてアホなことをぬかしておりましたけれど、
スッカスカになってからもずっと考えていて、
ちょっと言葉にまとまってきた気がするので
改めて日記にしてみようかな、なんて思ったのです。

大貧民っというトランプゲームをご存知かしら?
知らない人はあまりいないと思いますけれど、
こちらのリンクより遊び方をご覧くださいませ。
(nanapiより)

このゲームでは強いものにはさらに強くなる条件があり、
弱いものはさらに弱くなるという恐ろしい仕掛けがあります。
ところが同じカードが揃うと「革命」が起こせるようになり、
今までのカードの階級が逆転し、一番弱いはずのカードが最強となり、
大貧民が大富豪を打ち倒すことができるようになります。
(ジョーカーは全てのカードに該当するので、階級が関係ありません)

三すくみの話をするならジャンケンでもよかったのですけれど、
大貧民の話を持ち出したのは、「最強」と「最弱」が入れ替わるという話をしたかったからなのです。

基本的にものごとは「強い」ものへとより力が集まりやすい傾向にあります。 
お金や権力なんかはもっともたるものだと思います。
だけどその強権を発動させてばかりいると
(大貧民なら一番弱いカードを大富豪が大貧民に押し付けていると)
「革命」が起きてしまうということなのです。

例えば上司に当たる人が部下に対して強くで続けていた果てに
部下がパワハラだと内部告発、ないしその他の方法で
上司のクビが飛ぶ、もしくは人権がズタボロにされる
ということが起こります。

これはなにも上司がひどいやつだ、部下がクレバー過ぎるとか
そういう話ではなく、最弱だとみくびっていると
実は立場が上の人を下落させる一番の要因になるぞということなのです。
いつだって最弱が最大に強いのです。
ちょっと結果が飛躍したかな。

「寄生獣」という漫画をご存知でしょうか。
漫画はもう30年近く前のものですし、アニメや実写になってからも
もう何年か経ったので分からない人もいるかもしれませんが
「寄生獣」の後の創作はこの「寄生獣」にだいぶモチーフや
考え方を引きずられているので、ちょっとした聖典のようなものです。

「寄生獣」ではある生命体が人類に寄生すると
その人の頭を食い、宿主に寄生する「寄生獣」となます。
また、その「寄生獣」は人を殺して食べるという凶悪なもので
ものすごく力が強く人間にとって脅威そのものとなります。
だけど、その話の中で「寄生獣」側の代表が
「我々は弱い。だからあまりいじめるな」と言うのです。

「寄生」するものは宿主がいなければ存在すら成り立たない
とてつもなく弱い生き物です。
たしかに人間を食べたりして恐ろしい生命体だけど、
彼らはなにも人間を食べなくても生きていけるように覚えていきます。
その過程をすっ飛ばして人間を殺すから滅せ、
となると、彼らも何の因果か生まれてしまったばかりに身を守ろうと反撃をします。
彼らだってそんな殺されなくちゃならないものに生まれたくはなかったでしょう。

そういった話は比喩としても、さまざまな条件でそういった条件は
数多の姿に変えて出現します。

自分がふるっている力がどんなものであるのか
相手に与える影響はどういったものなのか。
意識をしていないと思いもよらなかったシッペ返しを受けかねないぞと
自身を振り返ることが大切なのだと思います。

って、おかしいなぁ。
違う話を書こうと思っていたのに全然違った話になってしまったぞい。

最強と最弱について別の話をしようと思ってたんだけどなぁ。
全てを受け入れる強さを持とう、頑張れみたいな
そういう話。
それが難しいことも、受け入れるよりも
一人一人は別の人間だから距離感を大事に尊重しましょうが主流なおかげで
距離感が測れない人たちが次々と爆死していることについて
どちらもどちらでそれなりの言い分と
良いところと悪いところがあるよ、みたいなことをしようと思ってたんだよなぁ。

まぁいいや。
気が向いたらまたそういった話を書こうと思います。
そんじゃまた。モイモイ。
コメント
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