とある知人が今ちょっと躁状態に陥ってるっぽくって
自分はいいけれど他は不可という状態に陥っており、
なんかまぁ大変なことになってるなぁ
なんて外側から見ていて感じているsachiakiです。
先日Facebookで私が「天才より凡人」
「地に足がついていないことよりも付いていること」
っていうような投稿をしたのをご覧になったようで
「私には地に足をつけて歩くなんて重たすぎて無理!」
っていう投稿が上がってきてて
そうなぁそれもまた人生だな、なんて受け止めつつも
ラピュタのシータのセリフにて
土に根をおろし、風とともに生きよう。
種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう。
を思い出していました。
これは空に浮かんでいる権力者が地についていないことについて
力をふるったところで地についていない土地の有様なんて
たかが知れていて滑稽であるという話として
シータの生まれ育った土地の歌を例えに出していたものなんだけど、
もう少し抽象的に解釈すれば
浮ついた権力なんて地に足がついていないだけに
上辺でしかないぶん脆いよねって話で
この場合の「地」というのは生活力であったり
人間関係であったりその人が生きていく上での基礎の部分で
この基礎をおそろかにしていたら
力を持ってブイブイ言わせている時はいいけれど
失った時のもろさは言わなくてもわかるでしょ?って話だなと。
ちなみにこの抽象的な話の解釈を私は
「地」を生活の基礎として生きる上での人々や生活力とし
「風」を情報や知恵とし、知ることを大事にって感じにし
「火」を情熱や心意気、チャレンジする精神や破壊衝動とし、
「水」をなにかを育てる時の養分や流れをつくるもの
って捉えているけれど、
知恵がなくては生活はできないし、情熱なくては全ては動き出さないし
水がなくては育つもの育たないってことだけど
どれもこれも大事なことだよね〜って思ってたりします。
人は個人としての自由があるけれど
その自由をふるまう時に社会全体(人間関係)というものがあり、
その自由に対しての制限というものがあるのは
社会からの恩恵を受け取る個人としての義務のようなものがある
って感じでしょうか。
義務や責任というものは重たいしシンドイし
一歩一歩を歩く時に枷にしかならなかったりするけれど
そういった重いものを背負えるようになるのが大人であるし、
それが成熟するってことなんじゃないでしょうかね。
未熟なままでいたいというのも
それはそれで構わないと思うけれど、
重さを背負えずに自分だけ恩恵を受け取ろうとする人に対して
社会はどこまで与えることができるのだろうか?
そんなことを思ったりもします。
働かずに生きていきたい、っていうのもあるけどねw
けれどそれは社会と関わっていないってことでもあるので
果たしてそれは生きていることと言えるのかしら?
とかいう考え方も出てきたり。
余剰の部分でかくまえる人の分はあるし
それを受け取るだけの人を養えるぐらい
社会は豊かであった方がいい。
だけど豊かでない社会である場合、
責任を果たさない人をどこまで許容できるかは難しい話だなぁ
なんてことも思ったりです。
なんにしても躁状態である知人が
次に待ち構えているのは鬱だと思うので
その落差に溺れないように気をつけて欲しいなぁと願うばかりです。
躁鬱って躁と鬱の精神状態のギャップが大きすぎて
対処しきれないって話っぽいのでな。
以上です!なんか考えているうちに選ぶ言葉が違ってきて
言いたかったこととずれた気もするけれど(゚ε゚)キニシナイ!!
そんじゃまた。モイモイ。
自分はいいけれど他は不可という状態に陥っており、
なんかまぁ大変なことになってるなぁ
なんて外側から見ていて感じているsachiakiです。
先日Facebookで私が「天才より凡人」
「地に足がついていないことよりも付いていること」
っていうような投稿をしたのをご覧になったようで
「私には地に足をつけて歩くなんて重たすぎて無理!」
っていう投稿が上がってきてて
そうなぁそれもまた人生だな、なんて受け止めつつも
ラピュタのシータのセリフにて
土に根をおろし、風とともに生きよう。
種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう。
を思い出していました。
これは空に浮かんでいる権力者が地についていないことについて
力をふるったところで地についていない土地の有様なんて
たかが知れていて滑稽であるという話として
シータの生まれ育った土地の歌を例えに出していたものなんだけど、
もう少し抽象的に解釈すれば
浮ついた権力なんて地に足がついていないだけに
上辺でしかないぶん脆いよねって話で
この場合の「地」というのは生活力であったり
人間関係であったりその人が生きていく上での基礎の部分で
この基礎をおそろかにしていたら
力を持ってブイブイ言わせている時はいいけれど
失った時のもろさは言わなくてもわかるでしょ?って話だなと。
ちなみにこの抽象的な話の解釈を私は
「地」を生活の基礎として生きる上での人々や生活力とし
「風」を情報や知恵とし、知ることを大事にって感じにし
「火」を情熱や心意気、チャレンジする精神や破壊衝動とし、
「水」をなにかを育てる時の養分や流れをつくるもの
って捉えているけれど、
知恵がなくては生活はできないし、情熱なくては全ては動き出さないし
水がなくては育つもの育たないってことだけど
どれもこれも大事なことだよね〜って思ってたりします。
人は個人としての自由があるけれど
その自由をふるまう時に社会全体(人間関係)というものがあり、
その自由に対しての制限というものがあるのは
社会からの恩恵を受け取る個人としての義務のようなものがある
って感じでしょうか。
義務や責任というものは重たいしシンドイし
一歩一歩を歩く時に枷にしかならなかったりするけれど
そういった重いものを背負えるようになるのが大人であるし、
それが成熟するってことなんじゃないでしょうかね。
未熟なままでいたいというのも
それはそれで構わないと思うけれど、
重さを背負えずに自分だけ恩恵を受け取ろうとする人に対して
社会はどこまで与えることができるのだろうか?
そんなことを思ったりもします。
働かずに生きていきたい、っていうのもあるけどねw
けれどそれは社会と関わっていないってことでもあるので
果たしてそれは生きていることと言えるのかしら?
とかいう考え方も出てきたり。
余剰の部分でかくまえる人の分はあるし
それを受け取るだけの人を養えるぐらい
社会は豊かであった方がいい。
だけど豊かでない社会である場合、
責任を果たさない人をどこまで許容できるかは難しい話だなぁ
なんてことも思ったりです。
なんにしても躁状態である知人が
次に待ち構えているのは鬱だと思うので
その落差に溺れないように気をつけて欲しいなぁと願うばかりです。
躁鬱って躁と鬱の精神状態のギャップが大きすぎて
対処しきれないって話っぽいのでな。
以上です!なんか考えているうちに選ぶ言葉が違ってきて
言いたかったこととずれた気もするけれど(゚ε゚)キニシナイ!!
そんじゃまた。モイモイ。