■ 私は麻雀はもうしないし、昔から読み物としての方が好きである。
昭和時代のプロ雀士・田村光昭氏と沢木耕太郎氏の対談(かなり昔)の中で、「今でも新宿で生き残れているのは払い続けてこれたから」だと。このフレーズは私の胸に今も響いている。
桜井章一氏の本も2年前はよく読んでいた。氏のような無敗のプロではなく
一般のプロ(商売)では、負ける時は必ず来る。
その時に、払えなければ【消える】しかない。
■ 物事を全て勝負と捉えるわけにはいかないが、成功が約束されていない部分を「負け」と想定しなければいけないということだ。
いかに、キレイに【負ける】ことである。
つまり金銭の決済の話である。
それを「想定」していないのは自らの「驕り」「なめている」ということである。
■ 絶対にレバレッジを効かせないことだ。
退店費用は常に手持ちしてること。
運転資金も持つこと(6ケ月分)そしてこれが食い込んで3ケ月になったら
どう考えても赤信号である。遅くてもここで決断することである。
■ 何故か?予測できない事が多過ぎるからである。
コロナ過もそうでした。
競合店が出来た。
体調不良(病気・或いは家族の病気)
予期せぬ、外部からの環境変化は捉えることが出来ない。
明日、交通事故で足を骨折するかも・・
同じ市場で戦ってる限り、「こっち側」の理由は言い訳にしかならない。
■ 【月末〆、翌月末払い】の取引条件があるとしよう。
10年間1度も遅れずに支払って普通、これで信用は出来ない。
信用のある店舗は、翌月の早い段階で払う。
条件は月末日までに払うことで、月末日に払うではない。
■ コロナ過で倒産した企業はない。それなら皆が倒産するはずである。
コロナで営業利益が落ちたから、負債を返済出来なくなったからである。
多くの企業は好調なインバウンドを追い風にした。思惑がバラ色過ぎた。
それも借り入れ金で見た夢だったわけである。
■上り坂だと思ったら【まさか】だっただけである。責任は全て経営者にある。こんな事はよくあることだ。
株式で言えば、株が下がっただけである。
堅調に推移する市場に浮かれ「信用買い」をしたのと同じである。マーケット(市場)の基本は【売る】である。
■【失敗から得るものはない】
成功からしか学べない。 私達が成功者の話を聞くと、とてもじゃないが真似出来ない努力や工夫がある。上場企業のファミレスや牛丼チェーンですら店舗の2割は赤字という事実は、大資本をもってしても、商売は甘くないということだ。
■ 再起可能の「負け方」を心掛けていなければならない。「負け」も想定内なのだ。
私は、数件は自分の店を閉めている、単純である閉める現金が有ったからです。商売をやめる時が、一番現金が要るのです。
「まだはもうなり」
■ 日本の経済を牽引してきた大きな企業も今は消滅したり上場廃止などで変わってゆく。三光汽船、シャープ・西部グループ・百貨店・三洋・東芝などなど枚挙に暇がない。世の中は儚いものだ。
私のような小商人の世界でも同じ。
働いて飯喰って風呂入って寝るの繰り返しの中に小さな喜びを何か持ってるだけである。
■ここに、鴨長明 【方丈記】の書き出しを写しておきます。今から丁度800年前の人である。
800年を経て尚、これ程に世の中を見透かした文はない。所詮は人の世、儚いものよ。
□ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。
残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。