■ 「欠点豆がない」というと、それが100%だというわけではない。当然である。
比重でも、色選別でも虫食いは機械的な区別は出来ない。
根本的に良質な畑で収穫しても混入す場合もある。
私が言うのは「根本的に」という意味において幅がある。その幅が個人差がある。
■ ある時期に強力な殺虫剤が禁止になった国では、次の年には反動で甚大な被害が出るが日本の焙煎屋には事情は判らない。
いづれにせよ、常時100%はないと、誰でも思ってる。
原袋で買ってるなら、販売者はサンプルを頼りに商売をしていることが多い。確認することもあるだろう。1袋づつ確認してる業者もあるかも?
■ しかし、中には閑なのか、欠点豆混入率が何%ですと、計算までして報告する人もいるが、私も、業者さんも含め、対応は「で?」である。
長い間、商売をしていると、良い事もあるし、悪い事もある。
100%時もある、その時は余分に1000円でもボーナス支払うこともないし、欠点だからクレームなら極端な話、取引を止めれば良い。
そういう自由意思を持って商売している筈だ。
当然ながら、1年後には取引出来る会社はない。そういう結果を選んだ結果でしかない。
■ 安定供給は目指せば、不正が始まるということがある。
私の場合は「欠点豆取り」はしない。基本的に。
しない、から見ないわけでもない。
見る。絶対にしっかり見る。「もしや・・・」があるからだ
欠点豆があれば取るだけ。それだけだ。 欠点率なんて考えたこともない。
考える人はいない。
■ 大事なのは、キレイな「コマーシャル」とキレイな「スペシャルティ」(欠点豆が多少ある場合もあるだろう)は全く違うという前提が自分で持ってるかどうかである。何がどう違いますか?
■ 色々な事情で、そのロットか?全体か?欠点豆が多ければ、これは販社に報告はする、それは情報としてフィードバックの意味だけである。
それ以上も、以下もない。
「どうしてくれるんだ」もない。
商売だから損は出来ないという人は、商売は出来ない。
株式投資でいう損切り、売り買い両建てする場合もある(当然どちらかが損で他方は得・イーブン)何故そんなこと?意味があるからである。
■ 「カフェ」なんてのは「なれの果て」である。そこまでの人生で寄り道、迷い道、回り道での経験を生かせば、参入障壁がないこの業界では上手く行くはずだ。だから「なれの果て」は大歓迎だ。
何一つ、リスクをとってこない勤め人だった人が失敗する。これが
「脱サラの成功率は5%以下」という現実である。
成功してる人は「間違ってサラリーマンをやってた人」である。
全く違う人種なのだ。
■ 骨董屋で「ニセ物」を買わされて怒るのは日本人くらいである。
その場で自分が納得で買ったのにである。
それを授業料にしない。
どんな分野でも授業料は必要である。
それ相応に授業料は支払って来た。
ほんの少しだけ「心」に余裕を持つことである。
そうすれば年に一回の除夜の鐘がうるさいという人はどういう人種か理解出来る。
「お祭りの笛・太鼓がうるさい・赤ちゃんが起きる」、「で?」である。
そんなの生まれる前から判ってることじゃなにの?
行政の立場では「で?」なんて言えないから
馬鹿がつけあがってクレーマー化する。
私にとってバターが1ポンドから400グラムになった事が重要である。
でも、会社に電話するわけはない。
嫌なら買わなければ良い選択を消費者は持っている。
■ 笑い話ではなく、今時は会社を辞める時の代行業があるというのだ。
自分で二度と会社に行けない、コンタクト取りたくないからであろう。
しかし現実は社会人として「行けない・取れない」であろう。
きっとこの人は一生それを続けて自分なりの完全無欠の「何故辞めたストーリー」を紡いでゆくのだろう。(笑)
近い将来【AI】が代行することも可能なこともあるだろう。
自分だけが主体である。
私は精神科医じゃないから何も判らないが、負荷が掛かってそれを克服することで成長してきた人の方が多い気がします。
だから「なれの果て」の人も方がオモロイ。その人の店は魅力がある。
■ 目先の損得だけで動けば、他人はその人を見限る。特に損もしないが、何も良いこともない。
だから 吉野家の生姜を「てんこ盛り」にしてる奴は気の毒である。(メタファーね。)
「儲かったね~~」と言ってあげよう。
私もそれくらいの親切心はある。