淡路の帰路に渋滞に遭遇し京都南ICで降りる、目指すは知人の「蕎麦屋」に向かうが、なんと休業だった、多分、お盆明けの休みだろう。そこで南座の横の「にしん蕎麦」の有名店に変更。レストラン菊水の向かいである。
知人の店は料理の写真を撮ったりする店ではないし、蕎麦屋の基本「呑む」が前提で、オバチャン連中や、食べログ評論家には来て欲しくもない、だろう。
料理人や、お茶屋の女将など玄人筋には評価が高い、蕎麦は「一流」過ぎて素人には見えない。 主人の生き方の問題。
その門を狭くしてまで「商売」してる。
良い意味でも、悪い意味でも、そういう人は少ない。
■ 今や、蕎麦を二人で注文し、5000円弱である。
今回は運転手なので酒も飲めないが、おつまみ2品とお酒でもう1万円の物価であります。が、この店は、そういう類いの店舗ではない。
■スマホはブレる。
このLEITZ PHONE 50㎜で撮影すると、フザけた描写しかしない
■ もうカメラを持って街歩きをすることはない。自分で言うのもなんだが「感性」が震えないのだ。 35㎜ズミクロン1本に拘ったり、気に入った「レンズ」だけを使う、そのレンズを3本買って比べることもしない。
元より、ズームレンズを使ったことがないのは、昔は性能が悪かったわけだが、スマホで指で「ビュー」をズームする気持ちにも今更なれない。
今の若者に「コダクローム」の色なんて言っても判らないだろうし
判る必要もない。
旧世代である。音楽で言えば「レコード」である。しかし、レコードが良いとは思わない。たぶん最新のモノが良いに決まってる。
しかし、私は新幹線よりも「機関車」が好きだし
インジェクションよりも「キャブレター」だし
フリースよりも、ウールのセーターだし
映画は「映画館」
世の中は確かに便利になった、ヨーロッパを旅しても、国ごとに通過を考えることは無くなったけれど、それで社会が豊かになって平和になったわけではない、むしろ反対だろう。
スマホが便利なのは判る、必須である。紙の時刻表などない時代だ。
現金が使えない場面も増えて来た、北欧では使う事はない。
コンビニを否定しても、他に買う店が街にないのだ。
しかし、敢えて「旅」に出て、迷いながら、遠回りをしてしまったり
地図を頼りに歩くことは基本のように思える。
今日の知人の「蕎麦屋」に電話すれば休業だと事前に判れば、市中まで乗り入れることは無かっただろうが、おかげで違う店に行けた。
その途中で「虎屋」が出来ていたり「吉兆」はそのまま、「モーリヤ」もそのままで、幾つかの店は消え、人の流れも少し変わった気がした。
「迷う」事がない旅など旅ではない。
そういう感性を持たずにgoogleMap見て歩く若者とは違う世界に生きている。