ここ数日、オアシス新宿で入手したキャサリン・クールマン
の著作「かいま見た栄光」を読んでいる。1ページ読む度に、心地よい衝撃と・・・・・即座に、はじかれたように、跪いての祈りに導かれる。主がこれまでの私の「求めの祈り」に、答えてくださっていると、ページごとに実感させられる。
彼女はおそらく、私の知る限りだが、使徒時代を除いて、最大のいやしの器だった。彼女のミニストリーを引き継ごうと、あるいは引き継いだと今でも著名な方が立っていらっしゃるが、そうではなく孤高の存在、主の器であったと思う。
彼女は述べている。「わたしはかつて、ただの一人もいやしたことはありません。わたしはいやす力など、全然持っていません・・・・それは聖霊が働かれたことに過ぎません。」すべての誉れと栄光をクールマン自身は徹底的に拒絶する。すべては神のもので、神の責任に帰することなのだと。
彼女はペンテコステ(聖霊降臨日/五旬節)が使徒時代から途切れることもなく、今日もなお続いているペンテコステの時代に我々は生きていること・・・・を訴える。証人としての力は聖霊の神から来るのだと。
「倒れる」ということについて・・・・事実クールマンの集会では多くの人が倒れたのだが、自身はそれがどうして起こるのか不思議がっている。クールマンとしては「御霊の油注ぎのもとにいることは、実に正常な状態で、それ以外のことが異常なのです」という手紙を紹介し、この見方に同意する。これは私にとって、かなりのショックだった。
祈り・・・・主よ、リバイバルの激しい雨音が、もうすぐそこまで来ています。この国を迂回しないでください。滝のような大水で打ってください。この命を惜しまず、用いてください。 (ケパ)