今は昔になるが、ブルゾンという言葉が一斉にお店で見かけるようになって、「それって何のこと?」と聞いたら、いわゆるジャンパーのことだった。高級感をあおる為に言葉まで変えて、まぁ少しは品質を上げて、高値で売ろうとしていたのだった。こんな例は枚挙にいとまがないが、要注意なのはこうした訳の分からんカタカナ言葉による意味隠しである。

読者の皆さんならアルバイト、パートまではご存知だと思われるが、フリーター、ソーホー(SOHO)、ノマド(nomad)と言うとほとんど理解がイマイチなのではないだろうか。私もノマドなんて「えっ、野窓のこと?」と思った。実はこれらは、全て非正規職雇用の形態用語である。カタカナで意味を分からなくさせて、問題を美化していると言ってもいいような現実がそこにある。例えばフリーターと言えば分からない人には???であって、惨めさを直接言わなくて済むのだ。ただし私の知っている方には、信仰の為にやむなく、というケースもあるので一概には言えないのだが。
最近の統計では、我が国の非正規雇用者が36,7パーセントを超えている(下図)。こんな説明を聞いたことがある。「自分の働きたいスタイルに合わせて仕事を選ぶ」、「束縛される正規雇用はゴメンだ」、それはどういうことだろうか?
例に挙げたノマドとは「遊牧民」という意味で、短めの分量での物書き(ライター)が多い。出版社と契約しており、ネット時代の現代なら、世界中のどこにいても原稿ぐらい送れてしまう。本人がチベットに居ようがタヒチに居ようが、そんなことはどうでもよい。そんな働き方を、自称、放浪する遊牧民(ノマド)に重ね合わせて称しているのだ。実にうらやましい働き方だが、しかしそのような高名で力のある物書きなど、そんなに沢山いるはずもなく、ノマドと称するたいていの人は、一般の下っ端サラリーマンよりさらに悲惨な待遇を受けている。いわば遊牧民に飼われている羊のように、追い立てられ、毛を刈られ、乳を絞られ、最後はお肉にされるような扱いを受けている。

ここで思い出すのはフリーターという言葉である。この自由でカッコ良さそうな言葉が、どれだけ多くの就職難民の若者を生んだことであろうか。彼らは将来への思慮に欠けており、正規雇用を拒んで自分に合った就業形態を選択した結果、時間と共に拒んだ正規雇用(社・者)から強烈なシッペ返しを受けている。最近私と知り合った人の言葉を借りれば、給料はどんなに働いても上がらず、正規の半分ぐらいしかない。雇用期間や交通費、健康保険、年金の保証もない。使い捨てである。このような元若い人たちを含め、この国には1/3をはるかに超える非正規雇用者がいるのだ。この国で、外国人労働者と競合して働く彼らの将来は、いったいどこにあるのだろうか?
だからカタカナは警戒しなければならない。明治の時代はテレホンを電話と言い、ベースボールを野球と日本語に置き換えた。表意文字である漢字で、すぐに意味が分かるようにした。ところがカタカナでは意味が分からないことが問題で、そこにわざわざブルゾンと別物のようにして売る誤魔化しが効くのだ。高級ジャンパーで十分だ。
偉そうに言うならば、若い人が自分流に働くなどと言うのは、そもそも仕事に対して高慢なのではないか? これから教えられ、必死に学んで育てられて行かなければならない半人前の人間が言う言葉ではない。

仕事に関しては、石にかじりついてでも三年は(その職場で辞めずに)働けよ。次に、これで命をつなぎ、働かせていただいとるという謙虚であれ、と諭された昔が懐かしい。だから私は最初に就職した会社に、ちょうどまる三年働いて辞めた。そして正規雇用を目指し、二年の非正規雇用の辛い時代を過ごして採用されたので、決して軽々しく辞めようとはしなかった。あの当時、このようなカッコいいカタカナ語が無く、人材派遣会社も無く、「臨時採用」と呼ばれ続けたのが幸いであったと思う。 ケパ

読者の皆さんならアルバイト、パートまではご存知だと思われるが、フリーター、ソーホー(SOHO)、ノマド(nomad)と言うとほとんど理解がイマイチなのではないだろうか。私もノマドなんて「えっ、野窓のこと?」と思った。実はこれらは、全て非正規職雇用の形態用語である。カタカナで意味を分からなくさせて、問題を美化していると言ってもいいような現実がそこにある。例えばフリーターと言えば分からない人には???であって、惨めさを直接言わなくて済むのだ。ただし私の知っている方には、信仰の為にやむなく、というケースもあるので一概には言えないのだが。
最近の統計では、我が国の非正規雇用者が36,7パーセントを超えている(下図)。こんな説明を聞いたことがある。「自分の働きたいスタイルに合わせて仕事を選ぶ」、「束縛される正規雇用はゴメンだ」、それはどういうことだろうか?
例に挙げたノマドとは「遊牧民」という意味で、短めの分量での物書き(ライター)が多い。出版社と契約しており、ネット時代の現代なら、世界中のどこにいても原稿ぐらい送れてしまう。本人がチベットに居ようがタヒチに居ようが、そんなことはどうでもよい。そんな働き方を、自称、放浪する遊牧民(ノマド)に重ね合わせて称しているのだ。実にうらやましい働き方だが、しかしそのような高名で力のある物書きなど、そんなに沢山いるはずもなく、ノマドと称するたいていの人は、一般の下っ端サラリーマンよりさらに悲惨な待遇を受けている。いわば遊牧民に飼われている羊のように、追い立てられ、毛を刈られ、乳を絞られ、最後はお肉にされるような扱いを受けている。

ここで思い出すのはフリーターという言葉である。この自由でカッコ良さそうな言葉が、どれだけ多くの就職難民の若者を生んだことであろうか。彼らは将来への思慮に欠けており、正規雇用を拒んで自分に合った就業形態を選択した結果、時間と共に拒んだ正規雇用(社・者)から強烈なシッペ返しを受けている。最近私と知り合った人の言葉を借りれば、給料はどんなに働いても上がらず、正規の半分ぐらいしかない。雇用期間や交通費、健康保険、年金の保証もない。使い捨てである。このような元若い人たちを含め、この国には1/3をはるかに超える非正規雇用者がいるのだ。この国で、外国人労働者と競合して働く彼らの将来は、いったいどこにあるのだろうか?
だからカタカナは警戒しなければならない。明治の時代はテレホンを電話と言い、ベースボールを野球と日本語に置き換えた。表意文字である漢字で、すぐに意味が分かるようにした。ところがカタカナでは意味が分からないことが問題で、そこにわざわざブルゾンと別物のようにして売る誤魔化しが効くのだ。高級ジャンパーで十分だ。
偉そうに言うならば、若い人が自分流に働くなどと言うのは、そもそも仕事に対して高慢なのではないか? これから教えられ、必死に学んで育てられて行かなければならない半人前の人間が言う言葉ではない。

仕事に関しては、石にかじりついてでも三年は(その職場で辞めずに)働けよ。次に、これで命をつなぎ、働かせていただいとるという謙虚であれ、と諭された昔が懐かしい。だから私は最初に就職した会社に、ちょうどまる三年働いて辞めた。そして正規雇用を目指し、二年の非正規雇用の辛い時代を過ごして採用されたので、決して軽々しく辞めようとはしなかった。あの当時、このようなカッコいいカタカナ語が無く、人材派遣会社も無く、「臨時採用」と呼ばれ続けたのが幸いであったと思う。 ケパ