イエス・キリストの映画化はかなりある。それを十分承知で、この映画は題の通り「神の子」の福音的土台は崩さないものの、一方実際に生きて働かれた人間としてのキリスト像をとことん描ききるという難題を見事に具現化した力作である。だから感動があり、生きた迫力があった。かつてパッションではムチ打ちの音と共に、悲鳴が聞こえ体を震わせる様子がうかがえたが、この映画では静かなすすり泣きがあちこちで聞こえて来た。(写真は映画の撮影風景・マタイの召命)
ヨハネ伝をもとにしているが、出来事が時系列通りではなく、かなり意図的にされていた。しかしナルホドと思わさせられる出来事の流れになっており、個人的には特に問題視するほどではないと思う。なぜなら各福音書間でも、出来事の時系列は一様ではないからだ。(写真は母マリヤ兼、映画のプロデューサーの二人)ただし出来事は聖者に忠実で正確でなければならない。ラザロの場面ではキリストは外で立ってラザロに出てくるよう呼ばわった。中に入って口づけしたりはしていない。しかし、この程度なら演出として許容の範囲内ではないだろうか?
サン・オブ・ゴッドとは「神の子」という意味である。キリストを歴史上の生きた人物として、なおかつ人間としではなく神の子として、という意味である。だからこの映画は、安心して伝道用に用いることができる。ただし、キリストはあんなにやたら口づけをしたりしなかったと思うし、俳優の表情などに魅了されたりの偶像化しなければという前提付きだが。 ケパ
ヨハネ伝をもとにしているが、出来事が時系列通りではなく、かなり意図的にされていた。しかしナルホドと思わさせられる出来事の流れになっており、個人的には特に問題視するほどではないと思う。なぜなら各福音書間でも、出来事の時系列は一様ではないからだ。(写真は母マリヤ兼、映画のプロデューサーの二人)ただし出来事は聖者に忠実で正確でなければならない。ラザロの場面ではキリストは外で立ってラザロに出てくるよう呼ばわった。中に入って口づけしたりはしていない。しかし、この程度なら演出として許容の範囲内ではないだろうか?
サン・オブ・ゴッドとは「神の子」という意味である。キリストを歴史上の生きた人物として、なおかつ人間としではなく神の子として、という意味である。だからこの映画は、安心して伝道用に用いることができる。ただし、キリストはあんなにやたら口づけをしたりしなかったと思うし、俳優の表情などに魅了されたりの偶像化しなければという前提付きだが。 ケパ