ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

テニスを選んだ訳

2015年06月02日 | 随想
テニスコートに行くと、平日の昼間はお年寄りが目につく。かく言う私もそろそろ、その年代に仲間入りである。大方はダブルス、しかもミックスといって男女混合でやっている。私もその中に入ることもあるが、メインは厳しい一騎打ちの男子シングルスである。
数日前に、相手した方との話に、「学生時代はチーム競技(バレー)をしていたが、社会人ともなるとその機会はなくなり、今はテニスに転向した」と聞いた。そして「学生時代からしておけば良かった」とも。運動していた人は、していない人よりは動きや上達が早いが、最初からやっていた方が・・・というのは確かにそうなのである。
それで「中村さんは?」と聞かれて「そのぉ、学生時代からだ」と答えた。私は高校を卒業するまでは、青なり瓢箪の本好き、全くの運動音痴だった。大学に入って、自己改造を志し、決心して体育会はテニス部に入った。しかし当時の先輩たちは「コイツ、隣のESSと間違って入った奴だ」と相手にしてくれなかった。それほどとても続きそうには見えなかったようだ。
テニスを選んだのは、私なりの考えがあった。つまり、「この年でスポーツ始めても、決してプロにはなれない(それどころかレギュラーにもなれないだろう)。それなら一生涯続けられる、『現代で言う生涯スポーツ』競技を選ぼう」と。(写真は当時の学生時代に私も使っていたラケット)

実に45年経って、その事を思い出させてくれたのは、この「中村さんは?」と言う質問だった。そしてそれは正しかったと思う。まだクリスチャンではなかったので、神に聞いたわけではなかったが、自分の現状のありのままを認識し、そこから選ぶという事の大切さを実感させられた。
振り返って考えてみると、私たち自身、正しくありのままの自分を見る事ができず、ために無謀な計画を立てて挫折したり、高慢と自己否定のエレベーターに苦しむことがなんと多いことか。何か世的にはっきりわかるような、自分の価値が見えないと、ありのままの自分を受け入れられないのだろうと思う。

ところがそうした時、クリスチャンはどんなに幸いかと思う。逆にそのような自己価値がある方が問題なのである。自分を捨てきれないからだ。己を捨て、十字架を負えきれないのだ。価値なき我は、幸いである。もし、ありのままの自分を受け入れ、そこに立てるなら、その人は神から遠くない。 ケパ
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