何年か前、熊本の私の友人が原因不明の病になって、一時はどうなることかと思った。しかし私たちの教会では、神にとって不可能はなことは何一つなく、どんなに絶望的な病でも癒やされることを信じている。また病を試練と捉え、病を通しての神のご計画があり、それは祝福であると信じるなら、実際その通りになることを知っている。これは狂信的な信仰(私もかつてはそのように見ていたが)と思われるかもしれないが、この群れでは実際に奇跡的な癒しが数多く起きている上、私自身も体験していることなのだ。
この時、私たちは心から癒しを求め、また信じて熊本の病床で祈った。その結果、あまり時間を置かないで朗報が来た。彼の病の原因が判別したのだ。原因がわかると言うことは、対処の仕方、治療が可能になると言うことでもあった。この後、驚くほどの回復を遂げ、以前と変わらない健康を取り戻したのだ。
これは直接的には医学の力である。が、神は医師の手を通しても、癒してくださる。だから医学を否定するならば問題だが、神に祈り、医学によっても癒してくださるという両面が大切である。彼の場合、原因が分かることは、癒されることだった。これは精神の病についても同様であると私は思う。
広島時代、私は何人かの精神を病んだ病んだ方との関わりがあった。共通して言えるのは、各人のセルフイメージ(自己像)が正しくないことだった。客観的にも合致する自己像が乏しく、それを受け入れることが出来ない。ひどく落ち込むこともあったが、それは自分の実際とはズレた自己の高い目標があるためだった。そのことは尊いと思うが、ズレていたのでは、それは野球で必死に走ってホームベースを踏んでも、違うベースだったようなものである。だから私はできるだけ彼らの言う言葉を聞き、聞きながらこれはと思う同じ言葉を返して、自分で気づいてもらいたいと思っていた。
ありままの、正しい自己を知り、辛くても受け入れることが大切である。多くの病者がそれを受け入れることが出来ない。しかし十字架に架かってまで私たちの弱く、情けない罪人を愛してくださったイエス・キリストを信じるならば、そんな自分でも受け入れ、愛することが可能である。キリストにあって人は、己を捨て、また新たにされる。ありのままの自分でよいのだ、自己像のズレという病の原因が直され、癒される。真の神にあっては精神の病も癒される。
この時、私たちは心から癒しを求め、また信じて熊本の病床で祈った。その結果、あまり時間を置かないで朗報が来た。彼の病の原因が判別したのだ。原因がわかると言うことは、対処の仕方、治療が可能になると言うことでもあった。この後、驚くほどの回復を遂げ、以前と変わらない健康を取り戻したのだ。
これは直接的には医学の力である。が、神は医師の手を通しても、癒してくださる。だから医学を否定するならば問題だが、神に祈り、医学によっても癒してくださるという両面が大切である。彼の場合、原因が分かることは、癒されることだった。これは精神の病についても同様であると私は思う。
広島時代、私は何人かの精神を病んだ病んだ方との関わりがあった。共通して言えるのは、各人のセルフイメージ(自己像)が正しくないことだった。客観的にも合致する自己像が乏しく、それを受け入れることが出来ない。ひどく落ち込むこともあったが、それは自分の実際とはズレた自己の高い目標があるためだった。そのことは尊いと思うが、ズレていたのでは、それは野球で必死に走ってホームベースを踏んでも、違うベースだったようなものである。だから私はできるだけ彼らの言う言葉を聞き、聞きながらこれはと思う同じ言葉を返して、自分で気づいてもらいたいと思っていた。
ありままの、正しい自己を知り、辛くても受け入れることが大切である。多くの病者がそれを受け入れることが出来ない。しかし十字架に架かってまで私たちの弱く、情けない罪人を愛してくださったイエス・キリストを信じるならば、そんな自分でも受け入れ、愛することが可能である。キリストにあって人は、己を捨て、また新たにされる。ありのままの自分でよいのだ、自己像のズレという病の原因が直され、癒される。真の神にあっては精神の病も癒される。