ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

三つの謎解き

2018年05月01日 | 聖書
聖書を誤りなき神の言葉として信じる、それは素晴らしい恵みが与えられると言うことでもある。

そして信じれば信じるほど、聖書の些細な、一見「食い違う?」箇所が気になってくるものである。イエス様の言葉によると、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)とある。これは弟子たちだけでなく、信じる者すべてに適用できるもので、是非この恵みを共に得たい。そして恵みにより、一見食い違いに見えるところが、逆に聖書が神の著作である完全さが分かり、福音の真理のいったんに触れた喜びと、神への賛美が沸き起こるのである。

そこでだが、通読でヨハネ福音書を終えられた場合、私が感じた次の三つの不思議に答えられるだろうか?
(一)「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に違反。
これは使徒1:4にある命令である。それなのに弟子たちはガリラヤに帰り、元の漁師のようなことをはじめていた(ヨハネ21章)。これはどうなってる?

(二)マリアにだけ「さわっちゃダメ」❓
復活されたイエス様が最初にその姿を現されたのは、マグダラのマリアにだった。しかしそのマリアに対してだけ、イエスは「わたしにすがりついていてはいけません」と言われたのだ。しかしその後、弟子たちに息を吹きかけられたり、トマスには「手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」と言われている。この違いは何だろう。マリアが女性だったから?それとも他に?

(三)見ただけで、何が分かって、信じた?
これは「そして見て、信じた。」(ヨハネ20:8)の箇所で、ペテロとヨハネは墓に入って、それでイエス様の復活を信じたとあります。墓に入って、見ただけで、どうして分かったのでしょうか? 説明を試みてください。

※この答えとして、私の独断的推察は次回のケパ担当で❗
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