ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

叶えられない祈り

2018年05月23日 | 祈り
私たちの教会で1日1章という聖書日課がある。今週で使徒の働きが終わるのだが、今回ほどこの「使徒の働き」を読んでいて、心が動かされたことはなかった。それは「叶えられない祈り」だった。

パウロは、クリスチャンになったその土地の人々に対し、きちんと救われるためにはユダヤ教に改宗しなければならない(それが割礼を受けるという意味)という圧力阻止には成功した。だがこれは同時に、ユダヤ人と異邦人が一緒になって、一つの教会形成をすることに、かなり深刻な分裂問題を抱えることになった。(たくさんの手紙を書いたパウロの1シーン)

同じクリスチャンでありながら、律法に縛られない現地の人々と、律法に従うユダヤ人が同じ屋根の下に居て礼拝する・・・・ことすらかなり問題であり、まして一緒に食事をしたり、安息日の規定を守ったり・・・・するのは不可能である。だから本家エルサレムからアンテオケにやって来たユダヤ人のクリスチャンにしてみれば、共にやっていくために、まず割礼を受けるよう勧めるのは当然でもあった。
(※ユダヤ人クリスチャン=メシアニックジューとは、聖書の救い主がイエス・キリストであることを受け入れた律法を守るユダヤ教徒であり、新約聖書中心で、律法から解放されたとするクリスチャンとは実際の対応が全く違う)

こうした教会内の一致問題(結局はほとんど非ユダヤ人の教会となり、今日のキリスト教が始まった)に心を痛めていたパウロが、そのことを願い祈っただろうがまず一つ。
次にパウロは、同じユダヤ人が、異邦人以上に真に救われること=信仰義認をどれほど願っていたことか。これが二つめ。ケンクレアで終わらせたパウロの請願とは、だいたいこのようなものであったと推察される。(福音は全世界に)


結論から言えば、パウロの誓願は叶えられなかったし、二千年経った今現在でもそうである。むしろ逆行する情勢に、どれほどパウロは落胆しただろうか、容易に想像できる。
神には全人類を救うという、とてつもなく大きな計画があり、十字架の真の救いは、一民族宗教としてのユダヤ教から脱皮せざるを得なかったのである。パウロの切なる願いと祈りは、叶わなかった。叶わなかったが、捨て置かれたのではなく、福音が世界全体を一周し、その仕上げという終末時代には、ユダヤ人はユダヤ教徒からアニックジューとなり、さらに真のクリスチャンとなるはずだ。
一つの見方だが、パウロはおそらくこのような神の計画を、コリントかケンクレヤで直接神から聞き、それで誓願を終わらせた可能性もある。

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私の周囲には家族が癌の末期で、癒しの奇蹟を日々祈り求めている人が複数おられる。医学的には緩和ケアの段階であり、奇跡を求めているのである。神は全知全能であり、私は奇蹟を信じる。しかしたとえ奇跡が起こらなくても、パウロのように、神の計画は人間の思いをはるかに越えて高いことをも信じている。当然の願いと祈りが聞かれなくても、最善が成されたのは間違いない。信じる者には、永遠のいのちが約束されており、ほんの一時の後に、また会うことは変わらないのだから。

クリスチャンには、希望が溢れている。


ケパ






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