ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

洗っても洗っても、なくならない砂

2018年05月04日 | 信仰
今日も昨日ほどではないが、一日中、風が吹いた。風はカビや湿り気を吹き飛ばす。だから風の吹く船橋は、晴れの日が多く温暖で良い所である(写真は今日訪ねた隣の習志野市営の谷津バラ園で)。
私は中国山地にある盆地の町で育った。そこは毎朝9時までは霧が立ち込め、晴れるまでは何も見えない、乳白色の無風世界だった。だから時おり、強い海風が吹き荒れる船橋は新鮮である。ヤッケやコートに付いていたフードが、実際に役立つことがわかった。聖霊はよく風に例えられる。東京の真東、ここ船橋に、聖霊の風が強く吹いてくださると私は信じる。

さてこの風の日を利用しようと、昨夜久しぶりにテニスシューズを洗った。テニスシューズのようなゴム系のものは、あまり日に当てないで乾かしたい。だからこんな風の強い日が最適だ。以前は月に1回ペースでまめに洗っていたのだが、靴の内側に防水スプレーをかければ、数か月はもつことを発見して、ちょっと無精していた靴洗いだ。

洗ってみて驚いた。ゆすごうとすると、何度ゆすいでも砂が出るのである。四回目ぐらいからムキになったが、結局水の無駄使いと六回目ぐらいで止めた。出る砂の量は少なくなっても、どこから出て来るのか、砂が完全には切れそうになかった。

思えばこの靴、オムニといわれる人工芝用だ。オムニコートの表面は砂場であって、その上で長い時間、砂を蹴飛ばし、引きづり、かき回し続けていた靴なのである。靴の中だけではない、ソックスの中、靴底の中敷きの下まで砂だらけとなる。だから靴の生地の目の中に、すっかり砂が入り込んで、ちょっとやそっとでは、完全には落ちないのだ。

それで何を思ったのか、罪を、である。
見た目には見えなくても、洗っても洗ってもどこからか出て来る砂。それは、悔い改めても悔い改めても、罪の心が消えない私自身のように思える。洗う度に砂が少なくなって行くが、どんなに洗っても、一粒の砂も無くすることは、困難だ。聖者になることは、出来ない。

しかしこれが信仰のポイントなのだと思う。取れない罪深さは、同時に恵みでもある。Amazing Graceの歌のように、世にある限り、どんなに神があわれみ深いか、赦しのお方であるかをずーっと体験し続けることなのだ。(AmazingGrace、この有名なゴスペルの作詞者、ジョン・ニュートン(John Newton/1725-1807)は奴隷船の船長であった)

そして私の一生もそのように、願っている通りに、確かに清められては行くが、本質的な罪深さは消えず、決して究極的な清さにはあずかれないだろう。これが実は高慢さからの守り、神の計り知れない知恵と愛なのではなかろうか。
歌では一番から三番までがこの事を歌い、神のあわれみと守りを歌っている。そして四番の歌詞にでは、世の終わりが来て主の所に迎えられる時、A life of joy and peace・・・・私たちは喜びと安らぎの中に入るのだ。究極的な勝利の時である。

つまり一般の人々が恐れる死は、クリスチャンにとっては、待ち望んだ喜びの日、血肉の罪深さからの解放される喜びの日なのである。
あらためて思う、私たちは天国人なのだ。

ケパ







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