ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

問題を神の側から見た時、喜びと感謝に変わる

2018年05月07日 | 信仰


私は生来、高慢な者であった。忘れもしないが、小学校の時に痛くもない盲腸の手術をした。動けない私は、せっかく見舞いに来てくれた近所の友だちをすごく屈辱に感じて、追い返してしまったほどだ。

高慢な者は、負けることが受け容れられない。だから観るのはいいが、やるスポーツは嫌いだった。しかし勝つことは、負けから己を正しく知り、学んで生まれるものであって、例外はない。もし徳川家康に、しかめ顔となった三方ヶ原の敗戦が無かったらと思えば良い。

高慢さというものは、己を正しく知らない限り、心の不安定さを伴うものだと思う。クリスチャンになる二十歳までの私は、いつもエレベーターのように上下する自分の感情につき合いきれない思いがした。一方でこれが無くなったら、伸びきったゴム糸みたいでつまらないかも、と思った。心の病の方の苦しみの多くは、本当は弱く情けない自分を受け入れられない戦いであって、平凡への恐れ、真実への不安など、自分では気づけないけど、源が高慢さ故の苦しみがあるのかも知れない。

二十歳の春、私は学生運動の中で脱退し挫折した。それまで皆の前でマイクを握り、一丁前にアジッていたのにと、口先の愚かさと裏切りに、我ながらあきれ果てていた。その3月の夜、雪の降る小田急相模原駅の路地裏で、私は自分の愚かさを認め、神の存在を受け入れ、白旗を揚げて神様の軍門に降った。(つまりその足で教会に行き、クリスチャンになった)

五十歳の二月、十年以上にわたる妻の病の終着点、家族との別離とアルツの母を抱えた私は、喪失感に囚われ自暴自棄に陥った。最後にあらゆる不道徳な罪を犯して、もう終わりにしようとした。その欲望に捕らわれた瞬間、自分を捨てられない罪深さに気づかされ、偽善者として深い悔い改めに導かれた。その次に神に触れられ、体験し、福音派的な信仰が一変した。

今私は、本当に幸福で神への感謝にあふれている。辛かったこと、苦しんだこと、挫折したことが、実はすべて最大最高の益に変えられたことがわかるのだ。神の視点に立てばそうなのだ。真逆とはこういう事を言う。
確かに今だに私は高慢な者であるが、少なくとも高慢であることを骨身に知っており、これを砕く神の愛とあわれみが、私を覆っていることを知っている。
だから今、己に苦しんでいる人、困難にある人、試練に遭っている人、あなたは神の視点に立ち、喜んでください。感謝して下さい。今はわからないけど、そうなるのです。なることを信じて期待してそうすれば、どれほど神様が喜んでくださることでしょうか!

✳️益になった
"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"【ローマ人への手紙 8章28節】

✳️益にならなかった
"福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。"
【ヘブル人への手紙 4章2節】



ケパ





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