ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神の最善は人の思いを超えて

2018年05月25日 | 祈り


前回、「叶えられない祈り」を書いたきっかけをすっかり書き忘れていた。

実は私には前妻との間に娘が二人いる。いるのだが、二人は私との関係を断って十年になる。父としては断腸の思いだ。しかしどんなに私が娘たちを案じ、連絡しても、娘たちは固く関係を絶つように言い遺されているらしく、今もそれを忠実に守っている。しかし私は決してあきらめず、娘たちとの回復を神に祈り続けている。

そもそもこうなったのは、前妻が四十歳で拒食症を再発し、その命を守るために、私が檻の中に入院させたことから始まった。入退院を繰り返す中で、次第に入院期間が長くなり、退院を願う前妻に対し病院は「あなたの夫の許可が出るまで」と押し止めるようになった。

私は退院させない、憎いひどい夫になった。真夜中に「あなた、今すぐこんなひどい所から出して!」とか、「今から飛び降ります。責任はすべてあなたにあります」と言うような電話が再々かかるようになった。
そんな電話を受けて、どうして心が平静でいられようか? 慌てて真夜中に病院に駆けつけると、「真に受けたの?」と冷たく一言で切り捨てられる。何も言えず、私はその場に座ってしまう。
妻の命を守るため、子どもたちのため、私はどんな憎しみの対象になろうと、妻が生きてくれるなら、引き受けた。

それも数年して、医師からの長期強制入院要請があり、悩んだ末、私がサインを拒んだ途端、私たちは病院から見放されてしまった。家に居る妻。家庭が檻の中のようになった。入ったのは私である。言葉を交わせず、(互いに、なのだが)心を閉ざした妻。娘たちだけには、まだ母をやってくれている。私にとってはそれだけでも救いだった。

こんな風にして十年経てば、前妻の憎しみは飢え苦しむ己の体に、または退院を許さない夫に向けられているようでいて、実はそうではないことに気づき始める。時々覗かせるこれまで見たことのない人格、召天した母への激しく常軌を逸した執着。母の後を追って、どこか判らぬそこへ所へ行きたがった。
キャラクターのある霊的な存在が幾つも彼女の中に潜んでおり、凶暴にも支配していることがだんだんわかるようになった。前妻は囚われた被害者であって、戦う敵もその中に居た。その相手にとって、こうして正体がばれることは非常にまずいことであった。

そういう訳で、長女の大学進学を機に、ついに前妻は「癒やされに行く」とマイホームを人に貸し、私一人を田舎の私の実家に置いて出て行った。ここまでどんなに祈り、耐えたつもりでも、家庭が壊れて行くのを止めることが出来なかった。無力感とただ残る哀しみに、唯一の希望、癒しを求めるようになった。

そもそも私は前妻をどうしょうもなく愛していた。なれそめだが、クリスチャンなり立ての二十歳の夏、初めて教会で会った瞬間から、「この女性と」と固く心に決めていた。しかし彼女からは色よい返事はなく、傷心のあまり広島に帰ってからも諦められず、27歳になって、とうとう諦めきれないので、いっそ改宗して、カトリックの修道士になる決心をした。この四月にはいよいよ、イエズス会に入ろうとした二月、それまで六年も音信不通だった前妻から、突然の電話が鳴った。神様はどうしても私を、カトリックには行かせたくなかったようだ。

そんなこんなで、私にとってはまさしく夢のような女性で、有頂天になって結婚した相手だった。だからたとえ病を発しようと、それが原因で私をどんなに憎み、遠ざけ、拒んで遠くへ移住しようと、別れたくはなかった。たとえ金だけを送るマシーンとなっても、耐えなければならなかった。けれども見た目は何一つ報われることなく、娘たちをも私から引き離したまま四年後、前妻は胃癌で召天した。

このように述べれば、いかにも私はけなげな、美談風の良い夫のように見える。確かに私は前妻の癒しと家族の回復を祈り続けた。時に神に叫び、時に絶望しながらのたうち回った。
しかし私の真実は、そんな綺麗ごとではなかった。自分が良い夫で被害者ように思われたい、同情されたい、そんな偽善面と計算があった。自己憐憫の感情にも溺れていた。時間と共に自分を哀れみ、愛も冷えて行った。

家族と教会を失った私は、信仰的にもおかしくなり、普通の精神状態ではなくなっていた。若くもない五十過ぎのこの人生、この先には何も希望の持てることはない。「何もかも失って俺一人だ」、報われていない、そう思い出した。
ついに私は、新聞記事に載るほど罪を徹底的に犯して、身を滅ぼしたくなっていた。滅ぼして、自分を捨てた家族に腹いせをしようとしたのかもしれない。今でもそんな記事を見ると他人事ではなく、その時を思い出してゾッとするのだ。

もう少しで私が悪霊に身を渡そうとしたその時、神が私に幻で触れてくださった。どれほど私が罪深いかを気づかさせられた。自己中心の罪。偽善の罪、獣のような肉欲の罪に。

すると深い悔い改めが私を包み、日時がわからなくなるほどの悔い改めに・・・・聖なる神に、ただあわれまれることでしか助からない自分の罪に・・・・そうして三日後、突然、神ご自身のメッセージ「どんなにわたしがあなたを愛しているか、この時を待ち続けていたことか」という言葉を受けた。驚愕し体がガタガタ震えた。悲しみの涙はこの年月の間にさんざん流したが、歓びと感動の涙は初めての経験だった。

この時から私は180度何もかも生まれ変わって、カリスマ派になった。生きて働かれる神に聞き、神に人生を喜んで捧げた。罪がわかって、神が愛してくださったことが、心からわかったからだった。叶わなかったものの、妻に対しても、自分を義とし被害者にし、傲慢だった。心を閉ざさせた責任は私にある。謝罪をしなければと、心から思うようになった。

ーーーーーーーーーーーーーーー
パウロの誓願は叶えられなかった。私の妻への祈りも届かなかった。しかし神はパウロ同様、私の人間的な祈りをはるかに超えて、神に捧げた素晴らしい人生を、献身と結婚を与えてくださった。自分がどれほど罪人であるか、この長い戦いがなければ決して自覚することが無かったと思う。すると、悔い改めない私を、神があわれんでくださることもなかったであろう。
これは叶えられない祈りがあったからこそ、開かれた素晴らしい人生だった。

そして私は信じる。同じように、愛する娘たちへの祈りも、必ず最善に変えられることを。
※最後まで読んでくださった皆さん、神の計画は、人の思いを超えて最善です。あなたの切なる願いと祈りが叶えられなかったのであれば、それにはるかに勝る神の計画があるからです。神は愛です。信じて喜んでください。神は真実な方です。

"涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。
種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。
"
(詩篇 126篇5~6節)



ケパ






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あらら〜〜

2018年05月25日 | 生活
あら〜〜
昨日はblog上げてない。
私の日だったのです。

書きかけの状態が残ってるだけでした。
開いてくださった方ごめんなさい🙏


ベランダで咲いたミニ薔薇
グリーンアイス
4回目の冬で枯れたと思ったら、根元から若葉が伸び、復活しました。
薄いピンクの花びらは、日を追うごとにグリーンへと変わる。
そのはなびらの中心がグリーンに代わりにはじめると終わりの近い事を知る

この薔薇の報告のみで、感謝して下さいませ〜


ドルカス





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