梅雨明けは先月の終わりだったが、七月に入って初めて夏の雲の積乱雲(入道雲)を見た。見た所は船橋整形外科病院の初診者用の待合コーナーからだった。
この病院、並みの整形外科病院ではない。何しろ診察室がずらっと15も並んであるのだ。整形外科オンリーだが、その大病院なのだ。当然、質の高い専門的な医療が受けられると聞いている。(写真の奥、15の番号がついている診察室)
私がなぜここに来ることになったかというと、家から近いということもあるが、診断が難しそうだと思ったからだ。
発症は5月15日、横浜まで往復して走った時だった。その時は高速道を使わずに、行き帰りとも下道を5時間あまり走った。すると帰路、初めてアクセルペダルを踏んでいた右の股関節から臀部にかけて、経験のない鈍痛が始まった。いくら運転姿勢を変え、シートをずらし、足を内股にしようとも、痛みはなくならかった。
はじめは、日が変われば収まって治っていると思い、ドルカスにも言わずにいたが、それから以後、運転する度に鈍痛がするようになった。これだけ日数が経っても快方に向かわないので「これでは白馬まで運転できない」そんな、心配が生じた。そこで最初から民間療法に頼るのでなく、まず病院で診断してもらい、その上で治療に専念することことにしたのだ。
診察室に入って、医師の診断を受けた。レントゲンを撮って、またすぐ診察に戻る。近頃のレントゲンはフィルムを使わないので、瞬時に医師の元に届くようだ。
結局私は、骨には問題が無く、痛みも運転時だけなので、腰部の老化と、特定の筋のトラブルだとされたようで、単にストレッチをして経過を見ることになった。それでこの病院の二階にある、体育館よりも広い?リハビリ&トレーナー施設に案内された。アクセルペダルを踏む右足だけでなく、股関節全体のストレッチ四種を実地に指導された。
そのリハビリ&トレーナー施設で周囲を見たとき、若い人は皆、故障したスポーツ選手のようだった。それ以外の九割は私を含めて、老化が原因の人たちで、そのリハビリはある程度、痛みに耐えながらするものだ。皆、真剣で各自の課題に頑張られている。それを見ながら思うことがあった。
高齢者にならなければ、分からないことが沢山ある。混雑時の駅のトイレで、どうして年寄りは用が長いのか? ちょっとした段差で、どうしてつまづくのか? 達観しているはずの年寄りに、イライラする人がどうして多いのか?
その時、聖書の次の一節を思い出した。
「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(第1コリント15章50節)
体が若さを失い老いて行く、それは朽ちて行くスピードを増しこそすれ、決して戻せない希望のない一方通行だ。肉体に関しては、信仰がなければ、おそらく正視できない将来がそこにある。それなのに血肉の体にしがみついている、そんな感じだ。
しかし私たち日本人の大部分、正しくは非クリスチャンの99,8%は、滅ぶ自分の体だけがすべてだと思っているのだ。このリハビリ&トレーナーに通う人々は、自分の体とその最終的な行く先を、どう受けとめているのだろうか。
ところが私たちクリスチャンには朽ちないもの=御霊のからだを相続する希望に、ますます満たされていく。そのからだは、滅びない永遠のいのちと共にあり、幽霊のような霊ではなく、この血肉の体にはるかにまさる実際のからだだ。罪も苦しみも悲しみも無い国にそれはある。
生き方を模索する若い人たちだけでなく、高齢者にこそ福音は必要なのだ。
ケパ
この病院、並みの整形外科病院ではない。何しろ診察室がずらっと15も並んであるのだ。整形外科オンリーだが、その大病院なのだ。当然、質の高い専門的な医療が受けられると聞いている。(写真の奥、15の番号がついている診察室)
私がなぜここに来ることになったかというと、家から近いということもあるが、診断が難しそうだと思ったからだ。
発症は5月15日、横浜まで往復して走った時だった。その時は高速道を使わずに、行き帰りとも下道を5時間あまり走った。すると帰路、初めてアクセルペダルを踏んでいた右の股関節から臀部にかけて、経験のない鈍痛が始まった。いくら運転姿勢を変え、シートをずらし、足を内股にしようとも、痛みはなくならかった。
はじめは、日が変われば収まって治っていると思い、ドルカスにも言わずにいたが、それから以後、運転する度に鈍痛がするようになった。これだけ日数が経っても快方に向かわないので「これでは白馬まで運転できない」そんな、心配が生じた。そこで最初から民間療法に頼るのでなく、まず病院で診断してもらい、その上で治療に専念することことにしたのだ。
診察室に入って、医師の診断を受けた。レントゲンを撮って、またすぐ診察に戻る。近頃のレントゲンはフィルムを使わないので、瞬時に医師の元に届くようだ。
結局私は、骨には問題が無く、痛みも運転時だけなので、腰部の老化と、特定の筋のトラブルだとされたようで、単にストレッチをして経過を見ることになった。それでこの病院の二階にある、体育館よりも広い?リハビリ&トレーナー施設に案内された。アクセルペダルを踏む右足だけでなく、股関節全体のストレッチ四種を実地に指導された。
そのリハビリ&トレーナー施設で周囲を見たとき、若い人は皆、故障したスポーツ選手のようだった。それ以外の九割は私を含めて、老化が原因の人たちで、そのリハビリはある程度、痛みに耐えながらするものだ。皆、真剣で各自の課題に頑張られている。それを見ながら思うことがあった。
高齢者にならなければ、分からないことが沢山ある。混雑時の駅のトイレで、どうして年寄りは用が長いのか? ちょっとした段差で、どうしてつまづくのか? 達観しているはずの年寄りに、イライラする人がどうして多いのか?
その時、聖書の次の一節を思い出した。
「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(第1コリント15章50節)
体が若さを失い老いて行く、それは朽ちて行くスピードを増しこそすれ、決して戻せない希望のない一方通行だ。肉体に関しては、信仰がなければ、おそらく正視できない将来がそこにある。それなのに血肉の体にしがみついている、そんな感じだ。
しかし私たち日本人の大部分、正しくは非クリスチャンの99,8%は、滅ぶ自分の体だけがすべてだと思っているのだ。このリハビリ&トレーナーに通う人々は、自分の体とその最終的な行く先を、どう受けとめているのだろうか。
ところが私たちクリスチャンには朽ちないもの=御霊のからだを相続する希望に、ますます満たされていく。そのからだは、滅びない永遠のいのちと共にあり、幽霊のような霊ではなく、この血肉の体にはるかにまさる実際のからだだ。罪も苦しみも悲しみも無い国にそれはある。
生き方を模索する若い人たちだけでなく、高齢者にこそ福音は必要なのだ。
ケパ