ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

己れの実を見る

2018年07月14日 | 聖書
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(新改訳2017 ガラテヤ5:22~24)

これは明後日の聖書箇所だが、クリスチャンの間において、〈肉のわざ〉や〈御霊の実〉で偽預言者などを見分ける時などに用いる。また一般的な教会の役員などを選ぶ際にも、その人の社会的な地位や見かけ、能力からではなく、正しく選ぶ際には必要なことであろう。しかし冷静に自分を振り返って、この御霊の実がはたして自分に実っているかどうか、時々は振り返って自分に適用し、祈り求めて行く必要があるではないだろうか。

この前にパウロは「御霊によって歩みなさい」(16節)と言っている。そうすれば、これら聖書の実がつくはずだと。つまりこれは、各自が御霊の実によって歩んでいるかどうかのチェックリストだと考えると、とてもわかりやすい。

特に肉のわざである「ねたみ」「憤り」などは、ハナから、無理!と諦めている方が多いのではないだろうか? 「そんな人間になれる訳がない。もう人間じゃない!私は私。生涯悔い改めていれば良い」と言うような声が聞こえて来そうである。しかし途上人の私が言うのもおこがましいかも知れないが、「聖霊のバプテスマ」と新生や、それに続く「神(聖霊)の力」をご存じないから、そう思われるのだと思う。

山をも動かすからしだねの信仰や「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」(マタイ19:26)のイエス・キリストの言葉は真実だ。もしこの御言葉が信じられないのであれば、御前に立つ時、「これからあなたの行く天に、あなたの宝はありません」と宣告される可能性がある。

自分の力を見るのではなく、神にのみ希望を置き、信じ祈り求めて行く時に、いくつかの試練を通されながら、自分自身の御霊の実に、神の力と栄光を確かに見ることになる。それは聖霊の証印であり、ますます神を畏れ、栄光を帰し、敬い愛するのだが。



ケパ





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