先々週は信州と広島のそれぞれの実家で、家の手入れをする時間があった。ドルカスは家の中で整理清掃をし、私は庭の草刈りである。どれも庭は広く、主に草刈り機ですることになる。(写真は広島での作業)
ドルカスの庭には花やヒソプやミントのハーブ類、イチゴ畑が混じっていて、いちいち分けて刈り取りをすることになる。同じ草でも刈らずに残す草は、必ず人が蒔いたもので、刈り取るべき無用なものは勝手に生えた雑草である。この差は大きい。
こんな作業をしていると、イエス・キリストが天国についてした、あるたとえ話を思い出す。
「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタ13:24~30)
天国には麦だけが収穫されて倉にしまわれるのだが、刈り取りまでは毒麦も一緒に育てられる。これは農業をした経験があれば非常によく分かることだ。だいたい麦とか稲とかは、外見では区別できない雑草がつきまとう。わたしは稲作で「稗(ひえ)取り」をしたが、生えている状態を上から見ても判別できない。尖った葉をかき分けて目を根元に凝らすと、稗は土との境が赤い根なのでようやく判別できるのである。除草もある段階をすぎると、両方とも根が入り組んでしまっている状態では、途中で引き抜こうとすると良い麦の根まで傷めてしまう。だから刈り取りの時が来るまでは待たねばならない。稗も毒麦も、実を結ぶ時期になってようく分かるようになる。
この毒麦の話の直前には、十人の乙女の話があって、携挙の際に残されてしまうクリスチャンがいると受け取れる。。そしてこの毒麦のたとえは、キリストの再臨の際、クリスチャンは確かに天国に収穫されるが、それまではサタンからの偽りのクリスチャンもともどもに居るということになる。そしてその違いは、それぞれの「実」で判別できるのである。
これは、いっこうに聖霊の実が現れず、聖霊の臨在のないクリスチャンにとっては、かなり恐い話なのだ。草をより分けて刈り取りをしながら、自分の教会の兄弟姉妹を思い、そのすべての方が天へ決して洩れることのないよう祈った。
※携挙 (ケパ)