雨の中今ホテルに到着です。懐かしい場所。
夏の恒例の、白馬キャンプがはじまりました。23日はプレキャンプ24日から本キャンプです。今年は本キャンプから参加の私たちは、なんと真夜中の移動中。
先程軽井沢の峠ごえでは、濃霧につつまれていました。その時の道路事情ですが、 霧のため左側車線を走る様に指示が出てる! (写真はうまく取れてませんですね)
道路の右端からのフォグランプ照射で、道路左側のガードレールが霧の中でも浮き上がるようになって、道のラインがよくわかるのです。ところが指示に逆らって追い越しなどで右側ラインを走ると、今度は自分がどこを走っているのか、宙に浮いている様で大変危険でした。
指示には忠実に!それが自分を守ります。とケパさんが教えてくれました。広島生まれのケパさんの郷里は霧に巻かれる場所なんですって。
今回の派遣で、今更だが今頃気がついたことに、ギリシャ(だけではないらしいが)では、トイレットペーパーをトイレに流せない。「えーっ、ではどうするんだ?」とお思いだろうが、必ずその横に置いてある大きめのダストボックスへ入れるのである。
すると「臭いんじゃない?」と心配される向きもあるだろうが、乾燥が強い地域なのでそれほど臭わないと言う。しかし私はそれを疑っている・・・
どうも、文化とか清潔感、ハード的には下水処理施設能力もあるだろうが、根本的には押し流す水の絶対量が少ないためだろうと推測する。これはウォシュレットを使う日本人にとっては、人々の香水の強さと共に、かなりのストレスを余儀無くさせられるものだ。因みに海外へはハンディウオシュレットを必ず携行する。大方これで洗えるので紙の節約にも、恥ずかしさの節約にもなっている。
ところで写真はギリシャのトイレ風景。トイレの横にあるトイレ風のトイレではなさそうなモノ、さてあなたはナンだと思われます?※これは高級なホテルだけにありました。
海外に行く時には、祈りと実際的な覚悟がいる。 (ケパ)
昨日Blogアップできませんでした。
サブライズでいつもの礼拝とずいぶん違い、華やかにゲストが二人こられました。
神様に感謝しました。なぜって ? 七月から変化があります。と、神様に語られてます。昨年の変化から一年目です。 礼拝の恵み一つ目は、デンバー教会 ナオミちゃんの特別賛美。ピースフル練習の時より、さらに臨在があってね、私達はその賛美に恵まれました。 そして礼拝に熊本からケパさんのお友達が来てくださり、一日を私達と過ごされました。 礼拝に恵まれたこと感謝され、こちらに来たら必ずまた出ますと、言われました。二回目の来訪です~。 白馬へ一緒に連れて行ってしまいたいと祈りましたが、今は時ではなかった。でも、必ずご夫妻と共に行く時がきます。ハレルヤ(^.^) Dorcus
イスタンブールでのトランジットで、昼食食べたのだけど、もうこちらの食事に飽きてしまい、日本食っぽいものさがしたら、焼きそばとかお寿司があって、それをGET。
そしたら、なんとそれぞれ同じ値段の7ユーロ。でて来てびっくり、 「なぁにこれ。五個コロンと、乗っていてそれもねゴマの巻き寿司です~」 がっかり、と言うか笑っちゃいます。
そんなで今夜は、ナオミちゃんと一緒に船橋の回転寿司に来ました。「卵焼き美味しい。お寿司美味しい」と喜んでもらえて良かった。船橋は漁業の町?なのか、リーズナブル(一皿\135)でも美味しくいただきました。
しあわせ 感謝 ドルカス
今回、ほぼ8日のギリシャへ行きで、ギリシャ人の信仰というものに驚いたことがある。(写真はパトモス島のスカラにあるギリシャ正教会)
それはガイドさんにギリシャ人の信仰(ほとんどがギリシャ正教の国民)を尋ねた人への答えなのだが、ガイドさん(下写真)はこう言った。
「わたしたち(ギリシャ人)は、まずマリヤ様にお祈りします。」
「エーッ」と私たちプロテスタントは思った。それならばカトリックのマリヤ崇拝と同レベルか、それ以上かも知れないと。そして感謝したが一瞬、暗澹たる思いになったのである。なぜならマリヤはキリストの母という、特別神に祝福された人間であっても、所詮人間であって、私たちと同様に罪人なのである。どうがんばっても神へのとりなしは、罪人であるマリヤにはできない。だから祈ってもむだなのだ。これが分からないとは、実は聖書も、聖書の神も分かっていないということになる。多神教の人々には理解が難しいかもしれないが、唯一の神ではないものを信じて疑わない信仰というもの、それは救いとか、御国へ行くなどの基本中の基本が限りなく疑わしくなるものなのだ。
二千年前パウロが「マケドニアの叫び」から海を渡り、命がけで福音を宣べ伝え、今日の西欧世界、アフリカから南北アメリカ大陸へと発展し続けたキリスト教発展の橋頭堡となったこの地は、とっくに蝉の抜け殻のように空しくなっている。リバイバル(信仰復興)が本当に必要だと、強く強く祈りに覚えさせられた。