アンドレイ・タルコフスキー監督の傑作「惑星ソラリス」との共通性が見て取れる。死んだ人間が生き返ってくるところ、文字通り“故郷をめざす”主人公、そして“水”の描写を流れる時間のメタファーとして扱うこと等は誰でも感付くことだろう。さらに、低予算で昨今のSF映画と比べると随分と簡素なエクステリアを纏っていながら、内実はSFの雰囲気・空気感を凡百のハリウッド製の大作群よりも遙かに醸成させていることも共通している。
ならば本作はタルコフスキーのエピゴーネンに終始していると思ったらそれは違う。食い足りない部分はあるにせよ、独自の世界観を提出している点は評価して良いだろう。宇宙飛行士である主人公(及川光博)は宇宙空間での作業中に殉職する。事前に全細胞の遺伝子情報を残していた彼はクローン人間として蘇るが、幼少期の記憶しか持たずに再生したため、生まれ育った故郷を目指すべく研究所を抜け出して失踪する。二度目に再生された彼は一度目のクローンを探して、これまた故郷への道を急ぐ・・・・という筋書きだ。
主人公には双子の弟がいたが、幼い頃に水難事故で亡くしている。クローンによる再生は、この幼少時の兄弟関係と共鳴しているのは確かだが、一見“語るに落ちる”ような設定ながらけっこう深みも感じさせるのは、前提となる幼年時代の描写が実に丁寧かつ普遍的な雄弁さを持ち合わせているからだ。山深い村で優しい母親と3人で暮らしていたが(父親の影はない)、彼の無鉄砲な遊びが原因で弟は川に呑まれてしまう。子供なりに抱く悔恨と屈託はヒリヒリと観る者の胸に迫り、無垢な時は永遠に失われた悲しみが画面を横溢する。
美術担当の木村威夫とカメラマンの浦田秀穂による映像は素晴らしく、清涼な佇まいを持ったウェットな空気感の創出と、奥行きのある画面構成は見事と言うしかない。特に空から落ちてくる宇宙飛行士のイメージなどは、神秘的ですらある。中嶋莞爾の演出は、静か過ぎる展開をギリギリのところでメリハリを付ける職人技を発揮。決して観客を置いていかない態度には好感を覚える。エグゼクティブプロデューサーにヴィム・ヴェンダースの名前があるが、少なくともヴェンダースの近作より上質の出来であるのは確かだ。
及川の演技は殊の外良い。あのアンドロイドみたいな容貌に悲哀の影がよぎると、その“落差”が大きな効果を発揮する。母親役の石田えりの存在感も申し分ない。それにしても、勝手に“昇天”する道を選んだ一度目のクローンに対し、寄る辺ないスタンスに置かれた二度目のクローンの魂はどうなっていくのだろう。観賞後、ずっとそれが気になっている。