(原題:Capitalism : A Love Story )マイケル・ムーアのクリスチャンとしての立ち位置が明らかになったという意味で、実に興味深い映画だ。前作「シッコ」ではアメリカの非道な医療保険システムを糾弾してみせたムーアだが、本作での“敵”は資本主義そのものである。
通常、ドキュメンタリーにしろフィクションにしろ、こういった大きすぎる仇役を設定した場合は話が散漫になりがちだ。しかも資本主義が相手ならば、それに相対するスタンスといえばいきおい社会主義ということになるが、社会主義の“賞味期限”はとっくに過ぎている。これがたとえば“社会民主主義を望みたい”といったような漸進的な提言ならば表現手段はいくつも考えられるのだが、資本主義の全面否定となると、独りよがりの空論に陥ることにもなろう。
しかし、本作は資本主義のアンチテーゼとしてキリスト教を挙げているのだ。それも、米国のエリート層が数多く属するプロテスタントではなく、ムーアが子供の頃から影響を受けたカソリックである。プロテスタントがマネー資本主義の思想的背景の一つになっていることはマックス・ウェーバー等の著作で指摘されているが、対して原初的なキリスト教の形を残しているカソリックを観客への説得の道具に使っていることは、ムーアの小細工無しの映画作りが感じられて悪くない。
ムーアの父親はGMの工員だったが、それでも退職までには(都心は無理でも郊外に)一軒の家を持つことが出来た。そして子供達を大学に通わせ、1年おきぐらいには長期の家族旅行に出かけていた。現役時代には仕事に誇りを持って勤め上げ、定年後には決して高額ではないが日々の生活に困らない程度の年金を受け取る。これが普通の“真面目な勤労者の人生”だったのだ。
しかし今は違う。中流階級は消え失せて、一握りの富裕層と大多数の貧困層に二分されてしまった。いわゆる“勝ち組”の連中は“これが資本主義というものだ”とうそぶくが、ムーアは純朴なキリスト者の立場からその図式に激烈な抗議を試みる。イエス・キリストが本気で怒ったのは金に汚い商売人どもに対してのみだ。阿漕な手段で金儲けをする者は絶対に天国に行けない。
かつてF・ルーズベルト大統領が提唱した平等思想を実現させることが、キリスト教の理念で国家が運営される本来のアメリカの有るべき姿であると訴える。ムーアの演出は以前のようにケレン味に頼ることはなく、正攻法で淡々と論を進めてくる。イギー・ポップやウディ・ガスリーの楽曲の使い方も絶妙だ。
さて、劇中で日本を評価している箇所があるが、この点だけは納得できない。我が国は先進国では唯一、デフレから脱却できていないのだ。現政権が掲げる“友愛”とやらは、ムーアの信奉するカソリックの教義とは似て非なる安っぽいもの。現実を直視しない観念論者の集まりでは、事態は決して好転しない。