悲惨な話なのに、透徹した明るさとユーモアで満ちているのは、作者の底抜けにポジティヴな姿勢ゆえだろう。つまり、どんなに辛くても心の拠り所さえあれば、運命を受け入れられるという、作者の一種の“理想”を描いている。もちろん、こういうテーマは作り手の力量が不足していると宙に浮いた話になるのだが、そこはベテランの東陽一監督、訴求力の高い作劇を実現させている。
原作は人気漫画家の西原理恵子の元夫で戦場カメラマンの鴨志田穣の自伝的小説で、アルコール依存症のどん底状態にありながらも、離縁した妻や子供達と和解していくプロセスを追っている。
冒頭から主人公は荒れ放題だ。酒を浴びるように飲み、家庭内暴力を繰り返し、次いで吐血して入院。何度かこれを繰り返した後、いよいよ身体に限界が訪れてアルコール病棟に入ることになる。ところが、病院で出会う風変わりな患者や医者達と接するうちに、自分を見つめ直すきっかけを掴むのだ。
この病院内の描写がケッ作である。本人を含めた患者連中はすべて崖っぷちの境遇だが、彼らにとって病棟はそれまでのアルコール漬けの日常から隔離された、いわば彼岸の世界のような異空間である。そこで彼らは“素”の人格を取り戻すのだが、酒の力を借りて好き勝手に振る舞っていた頃とは打って変わり、性格の弱さや女々しさ、そして心の奥底に隠されていた人間らしさもレアな形で表に出てくる。
本音と本音とがぶつかり合い、剥き出しのコミュニケーションが交錯。本人達は真剣なのに、端から見れば笑いが巻き起こる。人生は悲劇であるよりも、喜劇の側面の方が大きいのだ。そのうち、やがて本当に大切なものが見えてくる。主人公にとってそれは“家族”であった。題名にある“うち”とは家族のことだ。
やっとの思いでアル中を脱した彼だが、すでに身体はガタが来ていて残された時間が短いことを宣告されてしまう。自分のさだめを知った彼が浜辺で家族と過ごす終盤のシーンは、切ない感動を覚える。
主役の浅野忠信の演技は、彼のキャリアの中でも代表作になると思われるほど達者だ。ヘヴィな状況の中にも飄々とした軽さを出した妙演であり、これが力の入ったリアリズムで押し切る役者だったら重すぎて見ていられなかっただろう。
妻役の永作博美も良い。やがて来る別れを察知しつつも、仕事と家族の世話を毅然として続け、しかも他人と一緒にいるときは弱音を吐かないという強さが映画に凛とした輝きを与えている。北見敏之や螢雪次朗、光石研、香山美子といった脇の面子も的確な仕事ぶりだ。観た後に深い余韻が残る佳編である。