展開があまりにも淡々としているので、観ていて眠くなってしまう。ドラマ運びに破綻はないが、盛り上がりもほとんどなく、ただ“丁寧に撮りました”というポリシーだけが前面に出るのみ。これでは評価出来ない。
森田芳光監督が“普通の演出家”に落ち着いてしまったことは、冒頭近くの食事シーンに象徴される。一家揃って膳を囲み、毎度同じ自慢話を得々と話す父とそれを受け流す主人公、彼の働き過ぎに気を使う母と祖母、まさにほのぼのとしたホームドラマの構図である。これが出世作「家族ゲーム」(83年)で、一家を食卓の横一列に座らせて人間関係の危機を鋭く描いたラディカルな作家の映画かと思わせるほどだ。
考えてみれば今の日本映画のベテラン作家といえば、森田の世代になる。80年代前半に邦画界のニューウェイヴとして華々しく登場して先鋭的な作風を誇った連中が、今では完全に“守りの姿勢”に入っていることは、まさに隔世の感がある。かといって新しい世代には尖った感覚を持つ者はあまり見当たらないし、日本経済と同様に邦画界も長期低落傾向に入ってしまったということだろう。
歴史学者の磯田道史が「金沢藩士猪山家文書」を元に、加賀藩の経理係であった下級武士の幕末から明治初期に渡る家計の推移を綴った新書版が原作。私は未読だが、ノンフィクションをフィクションとして映画化するには物語の構築に細心の注意を払わなければならないのは確かだ。しかし、本作には何の工夫も見られない。ただ一家の出納帳を見て、それから想像出来る事実を漫然と並べているだけだ。
一応、ストーリー面では主人公の猪山直之とその息子との確執が盛り込まれてはいるが、興趣を覚えるようなモチーフは皆無に等しい。テレビドラマでよく見るような微温的な描写に終始する。
私がこのネタで観たいのは、家計の項目の(動的な)精査による武士の暮らしの細密な描出、そして時代が移っていくことにより侍としての矜持がどう変化していくのか、といったことである。それらが実現出来ていればこの映画は屹立した個性を獲得したはずだが、映画の作り手にはそういう意向はまったく無かったと見える。生ぬるいホームドラマに仕立てて、平穏無事にやり過ごすことしか考えていないようだ。
主演の堺雅人をはじめ中村雅俊、仲間由紀恵、松坂慶子と芸達者なはずのキャストを揃えてはいるが、見せ場になるようなシークエンスを与えられていない。要するに、凡作として片付けてしまいたくなるようなレベルである。