(原題:RICHARD JEWELL)日頃より、クリント・イーストウッドの監督作は“観る価値無し”と決めているのだが、本作はけっこう評判が良かったので劇場に足を運んでみた。結果、観終わって“やっぱり、時間の無駄だったな”という感想しか持てない。とにかく、この生温い描写と感情移入が著しく困難な登場人物のオンパレードには、辟易するしかない。
96年、アトランタオリンピックを記念して行われていたコンサートの会場で、警備員のリチャード・ジュエルは不審なバッグを発見する。どうやら爆発物らしい。彼はいち早く警察をはじめ関係部署に通報し、自身は観客の避難誘導に当たっていた。爆発そのものは止められなかったが、被害を最小限に留めることは出来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/0a/2a8cd51e70787e3382d1f96b04f119ed.jpg)
リチャードは一躍英雄として持て囃されるが、彼の行動と経歴に疑問を持った新聞社が事件は彼の自作自演ではないかという記事を載せる。さらに、FBIはリチャードを事件の有力な容疑者として捜査を進める。ヒーローから一転して犯人扱いされることになった彼は、世間やマスコミから激しいバッシングを受ける。切羽詰まった彼は、昔の顔見知りであるブライアント弁護士に助けを求める。マリー・ブレナーによるノンフィクションの映画化だ。
驚いたことに、リチャードが犯人であるという証拠は何一つ無いのだ。物的にも状況的にも、彼の有罪を明確に示すものは存在しない。ところがマスコミは勝手な憶測によって“疑惑”をデッチ上げ、捜査当局もうっかりそれに乗ってしまったという話なのだ。しかしながら、無責任なマスコミは別にしても、FBIが証拠も無しに強引な捜査を押し進めるというのは納得出来ない。
劇中では“証拠が無いことを、疑われた方が証明しなければならない”という、いわゆる“悪魔の証明”みたいな極論が引用され、彼の国はそんな無茶苦茶な理屈が罷り通っているのかと驚いたが、映画の終盤になると“そうでもない”といったエクスキューズが臆面もなく披露され、この一貫性の無さに脱力した。ならばこの一件は何だったのか。単なる茶番ではないか。
捜査内容を平気でマスコミにリークするFBIの態度も納得できないが、くだんのデマ記事を漫然と垂れ流す女性記者の描き方に至っては、まさに噴飯もの。前半はあれだけ傲慢だった彼女が、何の前触れもなく後半では人間味あふれる存在(苦笑)へと変質するという脈絡のなさだ。
そもそも、リチャード自身が同情を寄せるキャラクターにはなっていない。いい年して独身で、母親と同居しているというのはまだ許せるが、何かというと法の執行者であることを頭ごなしに強弁するのには辟易する。見た目は冴えず、愛想もなく、前の職場ではトラブルを引き起こす。極めつけは自宅に多数の銃器類を保持していることだ。どう考えてもこれは、絶対に友達になりたくないタイプである。
リチャードをはじめ、FBIやマスコミ連中など、この映画にはイヤな奴しか出てこない。もちろん共感を呼べるキャラクターが絶対必要だという決まりはないのだが、本作の場合は不快なキャラクターの跳梁跋扈に何の必然性も無い。斯様に浅はかな作劇しか提示されていないのだから、ラストで紹介されるリチャードのその後の人生に何の感慨も覚えないのは当然のことだ。
リチャード役のポール・ウォルター・ハウザー、弁護士に扮するサム・ロックウェル、そしてキャシー・ベイツにジョン・ハム、オリヴィア・ワイルドなど、キャストはいずれも精彩を欠く。とにかく、マスコミの暴走や捜査当局の不祥事を扱った映画が他にも複数存在する以上、この映画にそれほどの存在価値があるとは思えない。イーストウッドの監督作は、もう願い下げだ。
96年、アトランタオリンピックを記念して行われていたコンサートの会場で、警備員のリチャード・ジュエルは不審なバッグを発見する。どうやら爆発物らしい。彼はいち早く警察をはじめ関係部署に通報し、自身は観客の避難誘導に当たっていた。爆発そのものは止められなかったが、被害を最小限に留めることは出来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/0a/2a8cd51e70787e3382d1f96b04f119ed.jpg)
リチャードは一躍英雄として持て囃されるが、彼の行動と経歴に疑問を持った新聞社が事件は彼の自作自演ではないかという記事を載せる。さらに、FBIはリチャードを事件の有力な容疑者として捜査を進める。ヒーローから一転して犯人扱いされることになった彼は、世間やマスコミから激しいバッシングを受ける。切羽詰まった彼は、昔の顔見知りであるブライアント弁護士に助けを求める。マリー・ブレナーによるノンフィクションの映画化だ。
驚いたことに、リチャードが犯人であるという証拠は何一つ無いのだ。物的にも状況的にも、彼の有罪を明確に示すものは存在しない。ところがマスコミは勝手な憶測によって“疑惑”をデッチ上げ、捜査当局もうっかりそれに乗ってしまったという話なのだ。しかしながら、無責任なマスコミは別にしても、FBIが証拠も無しに強引な捜査を押し進めるというのは納得出来ない。
劇中では“証拠が無いことを、疑われた方が証明しなければならない”という、いわゆる“悪魔の証明”みたいな極論が引用され、彼の国はそんな無茶苦茶な理屈が罷り通っているのかと驚いたが、映画の終盤になると“そうでもない”といったエクスキューズが臆面もなく披露され、この一貫性の無さに脱力した。ならばこの一件は何だったのか。単なる茶番ではないか。
捜査内容を平気でマスコミにリークするFBIの態度も納得できないが、くだんのデマ記事を漫然と垂れ流す女性記者の描き方に至っては、まさに噴飯もの。前半はあれだけ傲慢だった彼女が、何の前触れもなく後半では人間味あふれる存在(苦笑)へと変質するという脈絡のなさだ。
そもそも、リチャード自身が同情を寄せるキャラクターにはなっていない。いい年して独身で、母親と同居しているというのはまだ許せるが、何かというと法の執行者であることを頭ごなしに強弁するのには辟易する。見た目は冴えず、愛想もなく、前の職場ではトラブルを引き起こす。極めつけは自宅に多数の銃器類を保持していることだ。どう考えてもこれは、絶対に友達になりたくないタイプである。
リチャードをはじめ、FBIやマスコミ連中など、この映画にはイヤな奴しか出てこない。もちろん共感を呼べるキャラクターが絶対必要だという決まりはないのだが、本作の場合は不快なキャラクターの跳梁跋扈に何の必然性も無い。斯様に浅はかな作劇しか提示されていないのだから、ラストで紹介されるリチャードのその後の人生に何の感慨も覚えないのは当然のことだ。
リチャード役のポール・ウォルター・ハウザー、弁護士に扮するサム・ロックウェル、そしてキャシー・ベイツにジョン・ハム、オリヴィア・ワイルドなど、キャストはいずれも精彩を欠く。とにかく、マスコミの暴走や捜査当局の不祥事を扱った映画が他にも複数存在する以上、この映画にそれほどの存在価値があるとは思えない。イーストウッドの監督作は、もう願い下げだ。