元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「真夏の夜のジャズ」

2020-10-12 06:27:23 | 映画の感想(ま行)
 (原題:JAZZ ON A SUMMER'S DAY)1959年製作の映画だが、映像をブラッシュアップした上で今年(2020年)にリバイバル公開された。私は本作を観るのは初めてながら、音楽ドキュメンタリーの秀作と言われているだけあって、見応えがあると感じた。ミュージシャンたちの演奏もさることながら、当時の風俗や“空気感”といったものを実に上手く描出している。

 題材になっているのは、1958年7月3日から6日までロードアイランド州ニューポートで開催された“ニューポート・ジャズ・フェスティバル”である。このイベントは1954年に始まり、現在まで続いている。58年のフェスで特徴的だったのは同時期にヨットレースの“アメリカズ・カップ”が行われており、その映像も挿入されている点だ。つまりは、この映画は演者のパフォーマンスを追うだけの作品ではない。ジャズ・フェスティバルもヨットレースも、この時代と現場の雰囲気を伝えるための“小道具”として機能させている。



 冒頭の、タイトルバックに流れるゆらゆらと揺れる海面、時折登場する車に乗ったバンドの演奏、ミュージシャンや観客たちの何気ない表情のアップなど、音楽をネタにした“映像詩”の様相を呈している。特に印象的なのがオーディエンスの出で立ちで、時期が7月なので盛夏のはずだが、薄着の者はあまり見当たらない。ジャケットはもとよりコートまで羽織っている観客もいる。しかも皆シックな着こなしだ。

 たぶん当時は今みたいに夏は酷暑ではなく、東海岸の北部という場所柄もあるのだとは思うが、それらがまるでヨーロッバの避暑地みたいな雰囲気を醸し出している。そして全員が心から音楽を楽しんでいる様子が窺われ、観ているこちらも心地良くなってくる。ましてやこの頃は、60年代以降のアメリカの混乱を誰もが予想しておらず、繁栄を当たり前のように享受していた。もちろん社会問題は存在していたが、まだ大きく表に出ていない(ある意味幸せな)時代だったのだ。

 セロニアス・モンクやアニタ・オデイ、ジェリー・マリガン、ルイ・アームストロング、ジム・ホール、ダイナ・ワシントンといった顔ぶれの舞台はもちろん万全だ。しかし、他にもマイルス・デイヴィスなどのビッグ・ネームが出ていたはずなのだが、それらは大胆にカットしている。4日間を一日の出来事のようにまとめた監督バート・スターンの手腕は認めて良い。
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「パーフェクト・デート」

2020-10-11 06:57:36 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE PERFECT DATE)2019年4月よりNetflixにて配信。お手軽な学園ラブコメものだが、けっこう考えさせられる点もあって鑑賞後の印象は悪くない。設定は興味深く、各キャラクターは十分“立って”おり、しかもイヤな奴が一人も出てこないのも好感が持てる。本国での評価が高いのも納得した。

 コネチカット州に住む高校生のブルックス・ラティガンは、成績は申し分なくイェール大学への進学を希望しているが、大学の非常勤講師である父親の収入では学費を工面できない。ある日、同級生から“いとこのセリアが彼氏の代役を探しているので引き受けて欲しい”と依頼を受ける。

 ブルックスは見事にセリアの恋人としての“演技”をこなすが、意外な自分の“才能”に気付いた彼は、プログラミングに堪能な親友のマーフに専用勧誘アプリを作成してもらい、自身は“彼氏代行業”なるビジネスを開始する。そんな中、彼はパーティー会場でセレブな家庭の娘であるシェルビーと知り合い、一目惚れしてしまう。そこでブルックスは一芝居打って彼女に近付こうと画策するが、そんな彼をセリアは醒めた目で見つめるのだった。

 自信過剰な若造が現実を見せつけられて一度は落ち込み、そこから何とか成長してゆくという話だが、全体的にライトな作劇にも関わらずアプローチがけっこうシビアなのが面白い。冒頭、ブルックスは入試時の小論文の添削でダメ出しを食らうが、アイビーリーグに入るためには学力だけでは不十分であることを承知していながら、“足りないのはカネだ!”と勝手に合点してヘンなバイトに明け暮れる。

 マーフをはじめとする周りの者が彼を敬遠するようになり、セリアからは呆れられ、シェルビーとは上手くいかないようになって、初めて彼は自身の不甲斐なさに気付く。そして、自分を支えてくれた父親の有り難さも理解するようになる。セリアとの関係性と、終盤でブルックスが決める進路は予想通りだが、語り口に無理がないので観ていて気持ちが良い。

 クリス・ネルソンの演出は特段才気走ったところは無いが、余計なケレンを入れない分、安心して観ていられる。主演のノア・センティネオは、顔は若干イモ臭いが芸達者で嫌味にならないところが良い。セリア役のローラ・マラノは最初は生意気に見えるものの、映画が進むにつれ次第に可愛く思えてくる(笑)。オディッセアス・ジョージアディスにカミラ・メンデス、マット・ウォルシュといった脇の面子も悪くない。
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「甲子園:フィールド・オブ・ドリームス」

2020-10-10 06:59:22 | 映画の感想(か行)

 監督の山崎エマはニューヨークを拠点に活動する映像作家で、彼女が海外向けに日本の高校野球を紹介するために作ったドキュメンタリーである。その意図はほぼ達成されているが、深くは掘り下げられていない。しかし、この場合はそれがさほど欠点にはなっていないと思う。それどころか、考えるヒントを見出せることは認めて良い。

 本作の“主人公”は、全国有数の激戦地である神奈川県の横浜隼人高校の水谷哲也監督だ。100人以上の部員を擁し、全員を専用寮に入れて公私ともに面倒を見ている。彼は野球を人間的成長の手段だと思っており、事あるごとに部員にそのことを強調する。映画は彼と横浜隼人高校野球部を一年に渡って追い続け、その間に夏の甲子園第100回記念大会へ挑むための地方予選の様子も描かれる。

 水谷監督の“弟子”に当たるのが、花巻東高校の佐々木洋監督だ。言うまでもなく大谷翔平や菊池雄星といった逸材を育てた指導者だが、すでにその業績は水谷監督を凌駕しているあたりが面白い。この2つのチームを中心に、日本の高校野球とはアメリカから輸入されたベースボールではなく、“野球道”というべきものに進化し、単なるスポーツを超えた特別なものであることが示される。

 ただ、佐々木監督が劇中で言うように、高校野球は守るべきものはたくさんあるが、変えなければならない点も多々あるのだ。花巻東高校の野球部は新年度から坊主頭を廃止するらしいが、それはその第一歩であろう。

 とはいえ、いわゆる野球留学は目に余り、地元出身の選手が一人もいないチームもある。本作で描かれる2つの野球部も越境入学は当たり前で、練習試合や合宿のために遠隔地に出掛けられる余裕があり、とても“普通の”環境ではない。そして部員が多いということは、ほとんどの選手が補欠で終わることを意味する。水谷監督はそこを“人間形成にレギュラーも補欠も関係ない”とフォローはするのだが、普通に考えれば大会に出られないのではクラブ活動をやっている意味は無いと思う。

 そして、水谷監督も佐々木監督も有能ではあるのだが、世の中にはいまだに根性論や体罰が罷り通る運動部が存在していることは確かだ。そのことを考えると、やるせない気分になる。あと関係ないが、甲子園球場が大阪府にあるという表示は間違いだ。いまひとつ情報の精査が必要である。そして横浜隼人高校のユニフォームが阪神タイガースとそっくりなのには笑ってしまった。水谷監督は大の猛虎ファンらしい。
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「喜劇 愛妻物語」

2020-10-09 06:26:58 | 映画の感想(か行)

 一応、最後まで退屈せずに観ることは出来た。笑えるギャグもあった。しかしながら、釈然としないものが残る。他人のノロケ話に無理やり付き合わされたような、そんな違和感を覚えてしまう。「百円の恋」(2014年)などの脚本家兼監督の足立紳による自伝的小説の映画化だが、自身の体験談を自分で監督までやって作品に仕上げると、どうしても自己満足的になってしまうのだろう。

 売れない脚本家の豪太は、実質的に妻チカの“ヒモ”のような生活を送っている。2人はとうの昔に倦怠期に突入しているが、それでも妻とヤリたい豪太は妻の機嫌を取ろうとする。しかし、返ってくるのは冷たい蔑みの視線と容赦ない罵倒のみである。そんなある日、豪太の知り合いのプロデューサーから、香川県に絶好の映画ネタがあるので行ってこないかという話が持ち込まれる。そこで豪太は、取材を兼ねた家族旅行を提案。チカと娘のアキは仕方なく同行するが、その取材対象はすでに別の映画会社が押さえていた。その顛末に激怒したチカは、小豆島に住む学生時代の友人の由美の家に一人で行ってしまう。

 まず、この夫婦の造型が気に入らない。豪太は典型的なダメ亭主だが、物書きのくせにパソコン(及びワープロ)は打てず、運転免許証も持っていないというレベルには、正直“引いて”しまう。しかも“カネが無くて風俗に行けないので、妻でガマンしよう”といった身も蓋も無い心情を、滔々とモノローグで披露する始末。

 チカはそんな豪太にとことん罵声を浴びせる。幼い娘がそばにいても、まるでお構いなしだ。どう考えても2人は別れるのが自然だと思うのだが、それでも離婚しないのは、子供がいるからに他ならない。だが、いくら観ている側がそう思っても、実際は2人の関係は続いているのだから処置なしだ。もう勝手にやってくれという感じである(苦笑)。

 足立の演出はストレスなくドラマを進めており、お笑いのシーンも無難にこなすが、ここ一番の盛り上がりに欠ける。あと、トルコの軍楽隊みたいな音楽は効果が上がっていない。豪太に扮するのは濱田岳だが、私はどうも彼は苦手だ。脇役で出ている時は気にならないのだが、スクリーンの真ん中に出てくると受け付けない。

 チカを演じる水川あさみは、若い頃に比べればスキルは上達していると思う。特に身体を張ってのドタバタ演技には感心した。しかし、由美役の夏帆と並ぶと、容姿や演技の余裕感において見劣りしてしまう。豪太の浮気未遂の相手に大久保佳代子が出ているのだが、こっちと交代した方が良かったのではないか。なお、アキに扮した子役の新津ちせはとても達者だ。
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「アンカット・ダイヤモンド」

2020-10-05 06:32:58 | 映画の感想(あ行)

 (原題:UNCUT GEMS)2019年製作で、2020年1月よりNetflixにて配信された犯罪ドラマ。通常、映画は最初の10分間を観れば評価に値するかどうかは分かる。最初からテンポを掴めない作品が、途中から盛り返すケースはあまりない。しかし本作は、序盤どころか中盤過ぎまで要領を得ない展開が続くが、最後の約20分で怒濤の盛り上がりを見せ、結果として鑑賞後の満足度が高いという希有な事例だ。その意味で、観る価値はある。

 ニューヨークの宝石商ハワード・ラトナーは、大手の顧客を抱えて事業は順調のように見えるが、実はギャンブル三昧で借金の山を抱えていた。彼は義兄のアルノからも大金を借りているが、実はアルノはヤクザ者で、ハワードは常にアルノの用心棒たちから監視されている有様だった。ある日ハワードは、関係筋に手を回していたエチオピア産の希少なオパールを手に入れる。そのオパールにMBAのスター選手ケヴィン・ガーネットは興味を持つ、これがきっかけでオパール取引に本腰を入れて一発逆転を狙うハワードは、資金を集めるためハイリスクの賭けに挑戦する。

 冒頭のエチオピア鉱山の場面が、それからの映画の筋書きにリンクしないことに不満を覚えていると、ハワードの無軌道ぶりをメリハリなく延々と描く前半に、ただ呆れてしまう。ダメ人間を描くこと自体は別に問題は無いが、その語り口は冗長に過ぎる。ケヴィンとのやり取りや、アルノとの関係も漫然と示されるだけで訴求力が無い。ハワードの妻に関するパートに至っては、モタモタしていて至極退屈である。

 ところが、二進も三進もいかなくなったハワードが、アルノの一味を“監禁”し、その上で大勝負に出る終盤の展開は俄然ヴォルテージが高くなる。それまでのハワードの精彩の無い言動は、すべてがこのラスト近くの“大爆発”の伏線になっていると思うほどだ。ベニー&ジョシュ・サフディの演出は最後に本領を発揮したと言うべきだが、この瞬発力を中盤までにも出して欲しかった。

 主役のアダム・サンドラーは快演。胡散臭い山師ぶりを上手く表現していた。ジュリア・フォックスやイディナ・メンゼル、エリック・ボゴシアンといった脇の面子も良いのだが、NBAで活躍したケヴィン・ガーネットが“本人役”で出演しているのが興味深い。また、ザ・ウィークエンドが得意の歌声を披露しているのも見逃せない。なお、邦題とは違って劇中にはダイヤモンドが出てこないのは御愛敬か。
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「宇宙でいちばんあかるい屋根」

2020-10-04 06:57:57 | 映画の感想(あ行)
 つまらない映画だ。観る前は青春ものかホームドラマだと思っていたのだが、蓋を開けてみると私の嫌いなファンタジー映画だということが分かり、大いに盛り下がった。もちろん良く出来ていれば文句は無いのだが、中身はこの手の映画にありがちな“ファンタジーであることを言い訳にした、筋書きに不備のあるシャシン”になっている。これでは評価は出来ない。

 千葉県の地方都市に住む14歳の大石つばめは、父親とその再婚相手との間にもうすぐ子供が生まれることに、気を揉んでいた。一方、彼女は近所に住む大学生の浅倉亨が気になって仕方が無い。そんなつばめの唯一くつろげる場所は、通っている書道教室があるビルの屋上だった。ある夜、そこで彼女は“星ばあ”という派手な服装の老婆と出くわす。傍若無人な“星ばあ”に最初は戸惑っていたつばめだが、次第に相手に悩みを打ち明けるようになっていく。やがてつばめは“星ばあ”の望みを叶えるために協力するようになる。



 書道教室が入居しているビルには高齢の女性は住んでいないことが早々に明かされるので、“星ばあ”はスピリチュアルな存在であることが分かるのだが、そのキャラクター設定は随分といい加減だ。実体が無いのに食い意地だけは張っており、屋根の姿形でそこに住んでいる者たちの性格などが分かるなどと、意味不明なことを言う。そもそも、どうして“星ばあ”が赤の他人であるつばめの前に現れたのか不明だ。

 また、“星ばあ”との出会いにより、つばめが人間的成長を遂げるわけでもない。つばめにとって“星ばあ”は単なる話し相手だ。家族と折り合いを付けるのも、亨や学校の仲間との関係が好転するのも、結果としてはつばめが自主的にやったことだ。“星ばあ”の願いは極めて個人的なことで、ラストに彼女の“正体”が明かされても承服しがたい。それに、そのために事故で松葉杖姿の亨を炎天下に長々とつばめと歩かせるのも無茶である。つばめと“生みの母”との再会シーンに至っては、恐ろしく不自然で観ていて居心地が悪い。

 藤井道人の演出は完全に精彩を欠き、映像面での見どころも無し。特に“星ばあ”とつばめが夢の中で空を飛ぶ場面は、安っぽくて脱力した。しかし、これはたぶん野中ともそによる原作がそういうストーリー(おそらく文章だけではサマになっているのだろう)なのかもしれない。要するに、映画化には相応しくないネタなのだ。

 主演の清原果耶は頑張っているが、大人っぽい彼女が中学生役というのは、どうもサマにならない。“星ばあ”に扮する桃井かおりの演技も、想定の範囲内でしかない。伊藤健太郎に吉岡秀隆、坂井真紀、水野美紀、醍醐虎汰朗など脇には悪くない面子を揃えてはいるが、さほど印象に残らず。観なくても良い映画だった。
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「mid90s ミッドナインティーズ」

2020-10-03 06:58:55 | 映画の感想(英数)
 (原題:mid90s)たぶん90年代にティーンエイジャーだった観客(それも一部)ならば、大いにウケるのだろう。しかし、そうではない者(私も含む)にとっては、どうでもいい映画である。ドラマ自体に見せ場に乏しく、盛り上がりも無い。各キャラクターもそれほど“立って”おらず、85分という短い尺ながら、随分と長く感じてしまった。

 90年代半ばのロスアンジェルスの下町。13歳のスティーヴィーは兄イアンと母ダブニーの3人暮らしだ。彼は小柄で、身体が大きく力も強い兄にいつもやり込められている。不満を抱えたスティーヴィーが出会ったのが、路上でスケートボードに興じる少年たちだった。彼らがたむろするスケートボード・ショップに思い切って入ってみたスティーヴィーは、意外と簡単に仲間に入れてもらえる。ボードも安く譲ってもらった彼は、その日から練習を重ねるが、自由気ままに日々を送っているように見えた彼らが、実はそれぞれ大きな屈託を抱えていたことを知るのだった。



 冒頭、イアンにねじ伏せられるスティーヴィーが映し出されるが、彼が兄に対して大きな反抗心を持っているわけではない。それどころか親近感を覚えている。父親はいないが、母はカタギの人間だし、家庭内にはそれほど大きな問題は存在しない。スケボー仲間は見かけは不良っぽいが、中身はどこにでもいる(少々悪ぶった)少年たちだ。各々悩みはあるが、ドラマを動かすような重大なものではない。

 このように、映画的興趣を醸し出すようなアクションを起こしそうもない者ばかり並んでいるので、展開も平板にならざるを得ない。映画の重要モチーフになるはずのスケートボードにしても、60年代から存在しているアイテムなので、映画の時間軸においてクローズアップしている意味がよく掴めない。

 登場人物の誰かが大会に出て活躍するといった筋書きでもあるのかと思ったら、そうでもない。何もないまま、おそらくは作者のノスタルジーだけに乗っかって進むだけなので、観ているこちらは退屈するしかない。これで初監督になるジョナ・ヒルの仕事ぶりには、殊更に言及するべきことはない。

 サニー・スリッチにキャサリン・ウォーターストン、ルーカス・ヘッジズ、ナケル・スミスといったキャストも印象に残らず。使われている音楽がヒップホップ中心であったのも、個人的には納得出来なかった。何しろ私にとっての90年代の音楽シーンは、グランジとブリット・ポップなのだ(笑)。
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「プロジェクト・パワー」

2020-10-02 06:31:15 | 映画の感想(は行)

 (原題:PROJECT POWER )2020年8月よりNetflixにて配信された、SF(?)アクション編。設定は目新しくはないし、その設定自体も作劇に活かしているとは言い難い。予算が少ないのか、観たいと思っていた活劇場面は適当なところで切り上げられ、どうでも良いようなモチーフばかりが並べられる。まあ、尺があまり長くない(1時間41分)ことが救いだろうか。

 ニューオーリンズの街に“パワー”と呼ばれる謎のドラッグが蔓延していた。そのドラッグを摂取すると、5分間だけ超人的な能力を発揮出来る。ただし、どんな能力なのかは服用してみないと分からず、運が悪ければ死に至る。娘を“パワー”を製造する組織に拉致された特殊部隊出身の元兵士アートは、売人の女子高生ロビンに接触して情報を入手。そこから組織の中枢に切り込もうとする。一方、ニューオーリンズ市警の刑事フランクは、多発する“パワー”服用者の犯罪を解決するため、自らも“パワー”を摂取して容疑者たちに立ち向かっていた。フランクは挙動不審なアートをマークするが、やがて共闘してアートの娘を救出しようとする。

 こういう御膳立ての映画だと、観る方として期待するのは“超能力者同士の大々的なバトルシーン”である。しかし、本作ではそういう場面は少なく、しかも短時間でサッと切り上げられている。ドラッグの“効力”が5分間であるならば、せめて最低5分程度は引っ張ってもらいたいが、それも叶わない。しかも、超能力自体が激突するシーンはほとんどなく、片方が能力を披露するだけで終わる。これではカタルシスは生まれない。

 そもそも、この“パワー”はいったいどこから来たのか。舞台が南部ルイジアナ州だから“原産国”は中南米ではないかと想像するが、それでも大都市圏をさしおいて地方都市で多数で出回っている理由が分からない。これほどの重大犯罪にもかかわらず、捜査に当たっているのがフランクだけというのは不可解だ(終盤にその理由らしいものが示されるが、あまり説得力がない)。

 また、犯罪組織がアートの娘に目を付けた背景も説明されないばかりか、彼女の“能力”も取って付けたようである。さらに困ったのがロビンの造型。普通の女子学生があえて危険な橋を渡る必要はないと思うのだが、作者は“母親孝行したいから”の一言で片付けたいようだ。アリエル・シュルマンとヘンリー・ジューストによる演出はキレがなく、作劇は平板だ。

 主演のジェイミー・フォックスとジョセフ・ゴードン=レヴィットは頑張ってはいたが、内容が斯様な状態なので、大して印象に残らない。ロビン役のドミニク・フィッシュバックに至っては、表情の乏しさを得意の(?)ラップでカバーしようとしている有様で愉快になれない。唯一褒めるべき点を挙げるならば、海が近くて市電が走るニューオーリンズの市内風景ぐらいである。
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