2009年夏 富岡八幡宮例祭

2009年08月22日 | 風の旅人日乗
[二の宮の宮入 写真はすべて富岡八幡宮提供]

今年の夏の個人的クライマックスも、昨年同様、江戸・深川の富岡八幡宮だった。

3年に一度の本祭りは昨年終わったばかりだから、次の本祭りまで後2年待たなきゃいけないけど、陰の今年は、普段は富岡八幡宮の境内に祭られている二の宮の渡御で、各町内がリレーで担ぐことになっていた。

富岡八幡宮の初代宮神輿は、一代限りの豪商・紀伊国屋文左衛門が元禄時代に奉納したという、三基の総純金張りの豪勢なものだったが、関東大震災で消失した。
その後、昭和元禄とも呼ばれた昭和後期に財を成したある人物が、平成の世になって純金24kg、ダイヤモンド合計16カラット、ルビー2000個以上、その他白金だの銀だの宝石だの多数が散りばめられた、時価数億円という現在の一の宮を奉納した。
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日本一の黄金張り神輿として知られるその富岡八幡宮一の宮の重さは、4トン半。
奉納された年には何とか踏ん張って担いだものの、これではあまりに重くて、そう度々担ぐのは難しい、ということになって、一の宮より少し小振りの二の宮を拵えることになった。


しかし、屋根に舞う鳳凰の両目に2.5カラット+2.5カラット=5カラットのダイヤモンドがキラリキラリと輝くその二の宮も、重量2トンの大物神輿である。2年前の陰祭りのときも担がせていただいたが、そのときはその重さにやられて、腰を痛めた。最後まで担げず、あの年の自分は健闘はしたものの敗退した、と密かに自覚している。
今年、その二の宮を再び有難く担がせていただけるのだ。2年前のようなみっともないことはできない。

祭りで富岡八幡宮の宮神輿を担ぐには、「富岡八幡宮」の文字が濃紺で染め抜かれた白半纏を着ていなければならない。
その白半纏を着ていない者は神輿に触れることは許されない。
白半纏の下はさらし木綿の腹巻か白のダボシャツ、そして下半身は白の半ダコと白足袋が決まりだ。帯と鉢巻は各町内で統一されている。
白半纏を着るためには、各町内の肝煎り衆に公認された上で氏名登録が必要になる。
誰もが富岡八幡宮の宮神輿を担げるわけではないのだ。

そんな晴れがましい白半纏を着て、ナイキのエア・ソールの機能と構造をそのままパクッた靴底を持つエア白足袋(腰に優しい)を履いて、40分ほどだったが、今年は牡丹二・三町内担当レグを、ほとんど担ぎっぱなしで担ぐことができた。

不安だった腰のヘルニアも全然問題なく(翌日少し左足が変だったから、まったく大丈夫、というわけではなかったみたいだけど)、ワッショイ、ワッショイを叫びながらとっても気持ちよく担ぐことができた。

神輿が大き過ぎて、レグ途中の大横川に掛かる東富橋の鋼鉄製上部構造を担いだままくぐることができず、総代の指示で、みんなで一斉に担ぎ棒から肩を抜いて、全員中腰になりながら両手で担ぎ棒を抱えてその下をくぐらせた。
この十数メートルが肉体的(特に腰)に今年最も苦しかった程度で、そのほかはまったく問題なしの、完璧。2年前の個人的雪辱を果たすことができた。

昨年の本祭りと違って天気も良くて暑く、沿道の人たちが威勢よくザブザブと掛けてくれる力水が本当に気持ちよかった。
2年後の本祭りに向けて調子を整えるために、来年もいいコンディションで臨みたい。

次の町内の担ぎ手たちにバトンタッチして、心地良い余韻にひたりながら、それまで二の宮を担いできた道を仲間の担ぎ手たちと一緒に歩いていたら、
沿道に陣取って我々が担いだ神輿の渡御を見物していたらしい若い女の子二人が興奮して喋っている声が耳に入ってきた。

細かい言い回しはよく理解できなかったが、要約すると、
「お神輿も、それを担いでいる人たち(男の人も女の人も)も、すごくカッコよかったね」
ということを、新現代日本語とイントネーションを駆使した表現で二人は述べ合っているようだった。

そうか、この世代の心にも、日本の古い伝統のカッコよさは響いているのだ。
日本のいろんな伝統や文化を新しい世代に伝えようとすることは、まだ決して遅くはないのだと、思った。
ねえ、君たちの、ちょっとアバンギャルドな浴衣の着こなしも、とても可愛かったよ。

その二の宮渡御の前日、家族・親類と一緒に門前仲町の縁日をひやかして歩き、伊勢屋では久し振りにあんみつを食べた。
『伊勢屋稲荷に犬のクソ』というのは、江戸の町に多かった物トップ3だそうだが、門仲の伊勢屋も古くて由緒正しい。地元の人たちにはおこわが特に人気だ。学生時代、おんぼろヨットの修理費を稼ぎ出すためにぼくはこの伊勢屋で皿洗いのバイトをやったこともある。懐かしい店なのだ。

日暮れ時、富岡八幡宮境内で行なわれているという奉納ライブを、夕食までの間、ちょっとだけ楽しむことにして、八幡宮境内に向かう。
そのライブで歌うことになっている泉谷しげるさんの姿が、境内の隅にあった。

北九州・小倉の、坊主頭の田舎の高校生だった頃、泉谷さんや吉田拓郎さんや岡林信康さんとかが出演するコンサートに、小遣いの続く限り通っていた時期がある。

まだフサフサだった髪の毛をボブ・ディラン風にボサボサに伸ばしていた泉谷さんは、ステージの真ん中に置かれているイスまで片足を引きずって面倒くさそうに歩いてきて、
そのイスにドカンと腰を降ろして、あの当時からすでに、「季節のない町に生まれー、風のない丘に育ちー」って、怒ったように歌っていた。

そう言えばあの頃、小倉より田舎の田川にある歯医者さんの息子だった井上陽水さんは、その頃はアンドレカンドレという名前でステージに上がっていて、それらメインイベンターたちの前座として、おらぶ(叫ぶ)ようにひたすら声を張り上げて歌ってたなあ。
海援隊というグループにいた武田鉄矢さんも、その頃は、全国区の泉谷さんたちを盛り上げるための、地元北九州限定の前座だった。

テレビという華やかな活動の舞台もあるとは言え、音楽の中では比較的マイナーなジャンルにこだわり、その道一本でここまで生き抜いてきた泉谷さんは偉いなあ、オイラも道を見失わないよう頑張らないとなあ、などと考えながら、ファンに囲まれている泉谷さんの横をすり抜けて、本殿に上がってお参りした後、その下の敷石の一つに座り、ステージを観る。

そこでは、和服を優雅に着こなした美しいおばあちゃんたちと若い女の子たちが横にズラリと並んで琴(こと)の集団ライブ演奏をしていた。
その中でリーダー的なおばあちゃんは、自分もきちんと演奏しながら、左右の若い女の子たちの様子に気を配り、カラオケで言えばサビの部分、その曲のここ一番の聴かせどころと思われる場面では、稽古したとおりにうまくやるのですよオーラを左右の若いお弟子さんたちに厳しく注いでいた。
そして、体を結構激しく動かして演奏するその部分がうまく成功すると、ほっとしたような表情を見せて、それから自分自身の演奏の世界に戻っていくのだった。

和服を着て微笑みの表情を浮かべながら琴を調べているおばあちゃんたちも若い娘たちも、とてもカッコよかった。日本って、いいなあ。

伝統を次世代に伝えようとしている者、その伝統に魅力を感じてそれを前の世代から引き継ごうとしている者。
わずか2日間の間に、なんだかとても暗示的なものにお江戸の深川で触れたような気がするのだが、その正体をうまく見つけられないまま、2009年夏最後の、短い休日が終わった。